第10話ㅤ置き場所

アトラボ三階。


夜八時過ぎ。


共有スペースの照明は、半分だけ落ちていた。


ガラスには街の灯りが薄く映り込み、室内の光と外の光が静かに重なっている。


この時間の三階は、昼より広く見える。


打鍵も、確認の声も、会議室の開閉音もない。


動いているのは、サーバーの低い唸りと、換気の風だけだった。


相沢は端の席に座り、ノートPCを開いている。


画面には、古いフォルダが並んでいた。


数字だけの年月。


仮題。


未整理。


途中保存。


過去の自分が、置いたまま忘れていった箱ばかりだ。


カーソルが止まる。


Street_NoSound_proto


相沢は小さく息を吐いた。


「……まだあったのか」


クリックする。


画面が立ち上がる。


交差点。


信号機。


遠景のビル。


歩く人影。


街は動いている。


なのに、音がない。


車も、足音も、風もない。


無音のまま、世界だけが進んでいた。


相沢は苦く笑う。


「思想、強かったな」


当時は本気だった。


音を削いだ方が、本質が見えると思っていた。


飾りを消せば、真実だけが残ると信じていた。


だが今見ると、足りないものも分かる。


ドアが開く。


「何してんの」


凪だった。


ギターケースを肩にかけたまま入ってくる。


「墓荒らし」


「また変なこと言ってるな」


凪は画面を覗き込み、少し黙った。


「……音ないじゃん」


「ない」


「わざと?」


「昔の俺は、そうしたかったらしい」


凪が小さく笑う。


「めんどくせえな」


相沢も笑った。


否定はしない。


凪はケースを床に置いた。


「入れていい?」


「壊すなよ」


「壊れたら、その程度だろ」


アンプは繋がない。


椅子に腰掛け、ギターを膝に乗せる。


一音。


乾いた高音が、三階の静けさに落ちた。


画面の交差点に、初めて震えが走る。


信号が青に変わる。


そこへ、短いフレーズ。


人影が横断歩道を渡る。


その歩幅に合わせるように、薄い和音。


相沢の指がキーボードへ伸びる。


遠景の標識に、わずかな揺れを足す。


視覚だけの風。


凪はそれを見て、もう一音置く。


音は埋めない。


説明しない。


ただ、そこにある。


無音の街は、音を拒まなかった。


奥行きだけを、静かに受け取っていく。


相沢が呟く。


「……恥ずかしいな」


「何が」


「音いらないとか思ってた俺」


凪は画面を見たまま言う。


「今は?」


相沢は少し考える。


「選ぶ」


それだけだった。


凪が頷く。


「そっちの方が強い」


端の棚から、小さな撮影ライトを持ってくる。


簡易スタンドに立てる。


白すぎない色温度。


相沢を見る。


「撮るか」


「何を」


「発掘映像」


「勝手に企画にするな」


「いいだろ。責任ないし」


相沢は笑う。


その言い方には、聞き覚えがあった。


「……お前、それ好きだな」


「最高の言葉だろ」


カメラを固定する。


三脚の先に、古いゲーム画面と今の二人が入る。


配信というほど大げさではない。


ただ、記録するだけの距離だった。


相沢はヘッドホンを片耳だけ外す。


凪が言う。


「いくぞ」


最初の音は、声だった。


低く、揺れず、波みたいに一定の長さ。


交差点の画面に、声が重なる。


主張しない。


押しつけない。


置くだけだ。


凪はギターで隙間を支える。


歌が止まる。


静けさが戻る。


その時、背後で足音が止まった。


「……それ、外に出します?」


林だった。


ノートPCを片手に、資料帰りのまま立っている。


袖だけ少しまくっていた。


凪が視線を向ける。


「誰?」


「林。システム側」


林は画面から目を離さない。


「単体で出すなら、強いと思います」


凪が頷く。


「だろ」


「でも」


林は続ける。


「切り出さない方が残ります」


空気が少しだけ止まる。


相沢が椅子を回す。


「理由は」


林は画面の交差点を見る。


「ここで鳴るからです」


信号。


人影。


風。


無音の余白。


「この街に触った人の中に、音ごと残ると思います」


営業でも、レーベルでもない。


構造の話だった。


「単体だと、消費は速いです」


凪は腕を組む。


「もったいなくない?」


林は少し考えた。


「短期なら、出した方がいいです」


それから静かに続ける。


「でもこれは、短期じゃない気がします」


相沢は笑わなかった。


ただ、画面を見る。


昔の自分が置いた無音。


今の自分たちが置いた音。


同じ交差点の中で、ようやく並んでいる。


「……単体では出さない」


静かに言う。


凪が頷く。


「ゲームの中だけな」


林も頷いた。


「環境ログだけ残しておきます」


「頼む」


林はそのまま去っていく。


また三階が静かになる。


凪が小さく笑った。


「面白いな、あの人」


「だろ」


相沢は保存を押す。


画面の交差点で、信号が青に変わる。


今度は、ほんのわずかに、風の揺れが先に走った。


音は鳴らない。


音を置いたあとで、鳴らない場所も残した。


撮影ライトを落とす。


窓には夜景だけが残る。


相沢は椅子にもたれ、交差点を見たまま言う。


「置けたな」


凪はケースを閉じる。


「ああ」


過去でもない。


市場でもない。


誰かに向けた証明でもない。


ここに置くと、自分で決めた。


三階の夜は静かだった。


だが、もう空ではなかった。


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