第9話ㅤ歌っていい場所

昼休みのアトラボ三階には、共有スペースのブラインド越しに冬の光が落ちていた。


自販機の低い音。


キーボードの打鍵。


廊下の奥で小さく弾ける、誰かの笑い声。


普通の昼だった。


相沢はコーヒーを持って立っている。


高澤は少し離れた席で資料を見ていた。


視線は上げない。


だが、気配はある。


相沢は息を吸った。


波の高さを思い出す。


朝の水平線。


低く、揺れない位置。


最初の音は小さかった。


二音目で、近くの若手が顔を上げる。


三音目で、会話が止まった。


歌詞はない。


旋律も、まだ曖昧だった。


ただ、息の延長みたいな音。


マイクはない。


伴奏もない。


蛍光灯の下で、ただの声がまっすぐ落ちる。


アトリリンクスのエンジニアが振り向いた。


R&Dの若手が手を止める。


撮らない。


拍手もしない。


ただ、聴く。


相沢は目を閉じない。


逃げない。


音は廊下を曲がり、会議室の扉に当たって、少しだけ跳ね返った。


高澤が視線を上げる。


止めない。


ほんのわずかに、頷く。


相沢は、もう一段だけ高く出した。


揺れない。


震えない。


叫ばない。


伸ばす。


昼の空気の中で、場違いにならない高さ。


最後の音を、短く切る。


沈黙が落ちた。


長くもなく、短くもない時間だった。


誰かが咳払いをする。


椅子が引かれる。


キーボードの音が戻ってくる。


「……今の、何拍で取ってます?」


林が静かに聞いた。


相沢は笑う。


「測ってない」


「体感ですか」


「体感」


林は頷き、席に戻りかけた。


それから、モニターへ視線を戻したまま言う。


「次、ログ取ってもいいですか」


相沢は少しだけ眉を上げる。


「また歌えってこと?」


「はい」


迷いのない返事だった。


「正式には扱いません。環境反応だけ、置いておきます」


相沢は少しだけ笑った。


「好きにしろ」


昼休みの終わりを知らせる音が鳴る。


高澤が立ち上がった。


「戻れ」


いつもの声だった。


空気が、通常に戻る。


相沢は椅子に座った。


心臓は速くない。


汗もかいていない。


ただ、胸の奥だけが少し軽い。


「怖くなかった」


小さく呟く。


高澤は資料を閉じた。


少しだけ視線を向け、そのまま会議室へ入っていく。


相沢はモニターを開いた。


エンジンのコード。


藍のラフ。


凪からの音源。


全部、そこにある。


でも、さっきの声もちゃんと残っている。


特別扱いされなかった。


ニュースにもならない。


市場にも向かわない。


それでいい。


歌っていい場所がある。


また歌ってもいい場所がある。


それだけで、次へ行ける気がした。


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