第7話ㅤ波の奥

夜の海は、昼より近い。


窓を少し開けると、低い波の音が部屋の奥まで入り込んでくる。


照明は落としてある。


間接灯だけが、畳にやわらかな影を置いていた。


相沢は湯上がりのまま、畳に座っている。


濡れた髪をタオルで雑に拭きながら、ぼんやりと海を見ていた。


背後で、冷蔵庫の小さな駆動音がする。


高澤がビールを二本持って戻ってきた。


「飲むか」


「うん」


缶を受け取る時、指先がわずかに触れた。


それだけで、部屋が少し静かになる。


プルタブを開ける音が、夜の波に混ざった。


しばらく、何も言わない。


仕事の話も、統合の話も、榊の話も出なかった。


ただ、海だけがあった。


「なあ」


相沢が言う。


「ん」


「今日さ、久々に、何も背負ってない感じする」


高澤はすぐには答えない。


隣に座る。


距離は近い。


「重いか」


「……たまに」


素直だった。


高澤はビールを一口飲み、缶を脇に置いた。


「なら、今日は背負うな」


相沢が笑う。


「命令?」


「提案」


視線が合う。


波が、ひとつ強く崩れた。


相沢の指が、無意識に高澤の浴衣の袖を掴む。


離さない。


「……なに」


「確認」


「何を」


「まだ、ここにいるか」


高澤の手が、その指を包んだ。


強くはない。


けれど、ほどかない。


「いる」


高澤は逸らさなかった。


空気が変わる。


相沢が近づく。


額が触れる。


呼吸が混ざる。


波の音が、少し遠くなった。


最初は、確かめるだけだった。


そこにいるか。


離れないか。


戻らなくても、壊れないか。


答えは、言葉では返ってこない。


高澤の手が、相沢の背中へ回る。


相沢はその腕の中で、短く息を吐いた。


「あんま優しくすんな」


低い声だった。


「なんで」


「余計に、安心する」


高澤はわずかに笑う。


「悪いか」


返事はなかった。


代わりに、距離がもう一つ消えた。


湯上がりの熱が、夜気の中に残っている。


相沢は高澤の肩へ額を押しつけた。


「仕事とかさ」


「今言うな」


「言わない」


言葉はそこで切れた。


波の音だけが、障子の向こうで続いている。


畳に、ゆっくり重心が移る。


指が絡む。


急がない。


奪わない。


確かめるように、互いの温度だけを拾っていく。


「俺、逃げてもいい?」


相沢の声が、波の奥へ落ちる。


「どこへ」


「ここ」


高澤の腕が、今度は少し強く回った。


「逃げ場にしてやる」


その一言で、相沢の息がほどけた。


言葉はもう続かなかった。


夜は長い。


海は、ずっと鳴っている。


外の世界では、統合も、市場も、速度も、動き続けている。


でも、この部屋だけは違った。


何かを守るためでもない。


何かを増やすためでもない。


ただ、戻らなくても壊れない温度があった。


波がひときわ強く崩れる。


その音だけが、障子の向こうで静かに残った。


朝はまだ遠い。


海は何も聞かない。


ただ低く、変わらず続いていた。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る