第6話ㅤ波の低い宿
午後七時を過ぎても、アトラボ三階にはまだ灯りが残っていた。
けれど、その日の空気はいつもの夜と少し違っていた。
モニターには、Auroraエンジンの最新版が開かれている。ビルドは通っている。レビューも問題なし。AI班から返ってきた修正依頼も軽い。
明日までに相沢が抱えなければいけないものは、もうほとんど残っていなかった。
整っている。
整いすぎている。
高澤は資料を閉じた。
「今週、空けろ」
相沢は画面から目を離さない。
「何を」
「二日」
「レビューある」
「来週でも回る」
その言葉で、相沢の手が止まった。
「回る?」
「回る」
高澤は淡々としていた。
「お前がいなくても」
前なら刺さった言葉だった。
今は違う。
相沢は椅子を回し、高澤を見る。
「で?」
「海、行く」
「なんで」
「行きたいからだ」
「雑だな」
「整えるには足りる」
机の上には、最新のエンジン仕様書がある。藍から届いたジャケット案。凪が送ってきた未整理の音源。白石がまとめたレビュー予定。
全部、動いている。
今すぐ自分が抱えなくても、止まらない。
だからこそ、離れられる。
相沢は息を吐いた。
「ほんとに二日で戻る?」
「戻る」
「通知は」
「切れ。仕事禁止」
相沢はスマートフォンを裏返した。
画面が暗くなる。
「壊れないよな」
確認の声だった。
高澤は立ち上がる。
「壊れない位置にした」
迷いのない声だった。
週末。
約束した通り、三階の灯りはいつもより早く落ちた。
アトラボを出たのは、まだ空に青さが残る時間だった。
高澤が運転席に座り、相沢は助手席でシートを少し倒す。ナビの音声は切った。
高速に乗ると、街の灯りが後ろへ流れていく。
統合も、レビューも、肩書きも、少しずつ遠くなる。
「通知は」
高澤が前を見たまま言う。
「ちゃんと切った」
相沢はスマートフォンをダッシュボードに置く。
画面は黒い。
車内に音楽はなかった。
エンジン音。タイヤが路面を走る音。時々、ウインカーの乾いた点滅音。
トンネルを抜けるたび、空気が少しずつ冷たくなっていく。
やがて、フロントガラスの向こうに暗い水平線が見えた。
海だった。
車を降りると、潮の匂いが先に来た。
その奥で、低く続く波の音がする。
「寒」
相沢が上着の襟元を寄せる。
高澤は車をロックしながら言う。
「悪くない」
走ってきた距離ごと、余計な音が削がれていた。
宿は小さかった。
看板は控えめで、ロビーには静かな灯りだけがある。床はよく磨かれ、足音が柔らかく吸われた。
部屋へ通される。
障子の向こうに、灰色の海が広がっていた。
低い波が、規則的に岸へ触れている。
「……近いな」
相沢が窓を少し開ける。
冷たい空気と一緒に、波の音が入ってきた。途切れず続く低音が、部屋の奥まで届いてくる。
荷物を置く。
上着を脱ぐ。
時計を外す。
身につけていたものが減るたび、頭の中の音も減っていった。
部屋の奥には、小さな露天が付いていた。
庭と呼ぶには狭い。けれど、石の床と低い植え込みの向こうに、海だけはよく見えた。
二人で入ると、少し狭い。
だが、その狭さが落ち着いた。
湯気の向こうに海がある。
風が吹くたび、波だけが少し荒れる。
相沢が肩まで沈みながら言う。
「何も考えなくていいな、ここ」
高澤は海を見たままだった。
「考えなくていい場所に来た」
しばらく沈黙が続いた。
波の音。
湯の揺れる音。
時々、風。
相沢がぽつりと言う。
「俺さ」
湯面が揺れる。
「統合、まだ慣れてない」
高澤はすぐに答えない。
「知ってる」
「嫌ってわけじゃない」
「分かってる」
相沢は顎まで湯に沈む。
「でも、古いオフィスなくなったの、ちょっときた」
正直な声だった。
高澤は海を見たまま、静かに答えた。
「看板は降ろしてない」
「場所は変わった」
「場所は変わる」
波が一段強く岸へ当たる。
高澤が続けた。
「場所は変わる。お前が動いてるなら、それで続く」
相沢は返事をしない。
けれど、呼吸だけが少し軽くなった。
しばらくして、相沢がもう一つ言葉を落とした。
「榊、帰ってくるかな」
その夜、相沢の口から自然に落ちた名前だった。
高澤は波を見たまま、少しだけ黙った。
「帰ってくる」
「根拠は」
「帰る場所があるから」
波は変わらず低い。
相沢は目を閉じる。
「守らなくていいなら、帰らないだろ」
高澤は湯をすくい、指の間から落とした。
「守るために帰るんじゃない」
「じゃあ?」
「増やして帰る」
短い言葉だった。
だが、強かった。
海風が湯気を流していく。
相沢はそこで、ようやく笑う。
「研究成果持ってくるってことか」
「そうだ」
「老後じゃねえな」
「老後はまだ早い」
波は低いまま続いている。
湯の中で、隣の体温だけが確かだった。
何かを戻す夜じゃない。
変わったまま、続けるための夜だった。
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