第5話ㅤ揺れても、壊さない
アトラボ三階。
夜十一時。
サーバー室の低い唸りが、床の奥から伝わってくる。
五階の収録ブースはもう暗い。
一階のカフェも閉まり、建物全体の気配は薄くなっていた。
それでも三階だけは、まだ灯りが残っている。
相沢はデスクに座っていた。
モニターには、Auroraエンジンの最新版が開かれている。
ビルドは通っている。
AI班から戻ってきたログにも異常はない。
明日の社内レビュー用資料も、共有フォルダに揃っていた。
全部、整っている。
整いすぎていた。
相沢は椅子にもたれ、天井を見る。
「……なあ」
誰に向けたでもない声が落ちる。
返事はない。
壊れていない。
止まっていない。
遅れてもいない。
それなのに、胸の奥だけが少しざわついていた。
退屈ではない。
不満でもない。
ただ、必要とされ方が変わった。
前は、自分が手を出さなければ止まる気がしていた。
音も、開発も、人の流れも。
今は違う。
自分が前に出なくても、誰かが拾う。
誰かが繋ぐ。
そのまま世界は回っていく。
それは理想だったはずなのに、わずかに痛い。
ドアが開く。
高澤だった。
ジャケットを肩にかけたまま、無言で室内を見渡す。
「まだいたのか」
「いる」
「珍しいな。手が止まってる」
相沢はキーボードの前に手を置いたまま笑う。
「今日は壊さない日にした」
高澤は近くの椅子を引く。
「壊す日があるのか」
「たまにある」
座る音だけが静かに響く。
しばらく二人とも画面を見た。
相沢が言う。
「今、安定してるだろ」
「してるな」
「これ、もう俺が触らなくても回るだろ」
高澤は否定しなかった。
「回るな」
「それ、完成じゃね?」
「完成は、止まることじゃない」
「止まってねえよ」
「なら問題ない」
相沢は鼻で笑う。
それから少し黙って、低く言う。
「いなくても回るのは、前から知ってた」
高澤は黙って聞く。
「でも、ちゃんと見るのは初めてだ」
言葉にした途端、胸の奥のざわつきが輪郭を持つ。
高澤は視線を外さない。
「どう感じた」
相沢は少し考える。
「……怖いな」
正直だった。
「何が」
「俺が要らなくなる感じ」
サーバーの低音だけが続く。
高澤は淡々と言った。
「役割は減った」
相沢が眉を上げる。
「減った?」
「全部持たなくてよくなった」
相沢は黙る。
高澤は続ける。
「前は、お前が拾って、お前が直して、お前が回してた」
「まあな」
「今は違う」
短く区切る。
「持つものが減った分、深く行ける」
相沢は視線を戻す。
「深く?」
「揺れても壊れない位置まで」
その言葉が、胸の中の何かを静かにほどいた。
相沢はキーボードに触れる。
だが、開いたのはエンジンではない。
新規フォルダを作る。
名前はまだ入れない。
高澤が画面を見る。
「何だそれ」
「まだ分からん」
「市場向けか」
「向かない」
「会社の案件か」
「違う」
高澤の口元が、わずかに動く。
「逃げか」
相沢も笑う。
「違う」
空白のファイルを開く。
何も書かれていない白い画面。
前なら、先に設計図を書いていた。
先に完成形を決めていた。
今は違う。
壊れない土台がある。
なら、まだ名前のない揺れを探せる。
相沢が小さく呟く。
「壊さないで揺らす」
指がキーの上に置かれる。
「やってみる」
高澤は立ち上がった。
「壊れたら直せ」
「直す」
「一人で抱えるな」
「抱えない」
短い確認だった。
ドアが閉まる。
また静けさが戻る。
相沢は空白の画面を見る。
三階には灯りが残り、地下ではサーバーが回り続けている。
キーを打つ。
コードではない。
仕様書でもない。
ただの一文。
揺れは、直すものじゃない。
相沢は小さく笑った。
「……面白くなってきた」
壊さない。
でも、止まらない。
揺れる。
深く。
相沢は画面を閉じない。
白い光だけが、夜の三階に残っていた。
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