第4話ㅤ空気になる
午前十時のアトラボ三階には、冬の光が斜めに差し込んでいた。
ガラス張りの共有スペースの床に、机とアンプの影がくっきり落ちている。壁際には黒いギターケースが二つ立てかけられていて、それだけで足を止める者がいた。
「……ほんとにいる」
小さな声が落ちる。
「テレビで見るより普通だな」
「普通にいるのが変なんだろ」
ひそひそとした笑いが広がった。
ガラス越しに見えるのは、凪がアンプのツマミを回している背中と、相沢がノートPCの画面を睨んでいる横顔だった。
ポスターも照明もない。
ただのオフィスだ。
凪が一音鳴らす。
低く、乾いたコードだった。
音は天井に当たり、ガラスをかすめ、廊下の空気を震わせる。
ざわめきが止まった。
相沢がイヤホンを外す。
「そこ、半拍遅らせろ」
芸能人の会話ではない。
作業の会話だった。
資料を抱えた社員が、そのまま通り過ぎる。モニター班は、画面から目を離さない。
営業課主任の桐島航矢だけが振り返った。
「見学ツアーは二階でやれ」
笑いが散る。
けれど、完全には消えなかった。
昼休みになると、コーヒーを持った若手社員が共有スペースの前で立ち止まった。
スマートフォンを取り出しかけたところで、奥の席から低い声が飛ぶ。
「撮影禁止。社内規定」
若手は慌ててポケットへ戻した。
赤くなった耳だけが、まだ騒いでいる。
三日目には、足を止める人間が半分になった。
四日目には、立ち止まるのは新人だけになる。
五日目には、誰も止まらなくなった。
廊下の端で、林悠真が一度だけ足を止める。騒ぎが消えたことを確認し、何も言わず歩き出した。
ノートPCのメモ欄に、一行だけ打ち込む。
――観察終了。通常運用へ。
凪がリフを変える。
高音だけを残し、余白を広げる。
通りすがりのエンジニアが足を止めた。
「今日、BPM落としてます?」
凪が振り向く。
「分かる?」
「昨日より二拍遅い気がします」
相沢が笑った。
「正解」
そのエンジニアは頷いて去っていく。
写真は撮らない。
サインも求めない。
音の話だけして帰る。
観光が終わる。
開発が始まる。
アトラボ一階のカフェは、夜になると照明が落ち、カウンターの上だけが橙色に浮かぶ。
誰かが弾くピアノに、低いベースが重なる。
音はぶつからず、重なって奥行きになる。
ジャズの低音は、建物の下側で静かに回っている。
上ではエンジンが走り、下では音が走る。
どちらも、騒がれない。
三階では、夕方の光が青く変わっていた。
凪がギターを置く。
相沢がコードを保存する。
廊下を若手社員が通り過ぎ、少しだけ足を止めた。
「あの、さっきのリフ、共有サーバー上げといてもらえます?」
凪が少しだけ口角を上げる。
「素材扱い?」
「検証したいです」
そこではもう、名前より音の方が先に扱われていた。
相沢が椅子を回す。
「五日で慣れたな」
高澤は窓の外を見る。
夕焼けが、ビルの隙間に沈んでいた。
「五日で慣れない会社は弱い」
「喜ばなくていいのか」
「喜ぶのは市場だ」
静かだった。
だが、速度は上がっている。
凪がぽつりと言う。
「居場所、増えたな」
相沢はすぐには答えない。
モニターを閉じてから言う。
「逃げ場も増えた」
高澤が視線を戻す。
「選べるってことだ」
ガラスに夕方の街が映る。
その中に、三人の影が重なっていた。
五日で慣れた。
だから続く。
誰も止まらない。
だから回る。
凪がコードを変える。
相沢が保存を押す。
高澤は窓の外を見る。
三階は、何事もなかったみたいに動いている。
それが、いちばん強かった。
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