第3話ㅤ財布は混ぜない
九ヶ月の水面下準備が、半分を過ぎた頃だった。
まだ、アトラボ三階に新しいプレートは掛かっていない。Aurora総合開発本部という名前も、表には出ていなかった。
アトリリンクス本社の会議室。
窓際の席に座る加藤瑠衣の前には、薄い資料が置かれている。
向かいに座るのは、アトリリンクス経理部長の九条千景だった。
資料は薄い。だが、中身は重い。
九条は資料をめくる前に、加藤を一度見た。
「久しぶりね」
「お久しぶりです」
加藤は頭を下げた。
アトリリンクスにいた頃、加藤は経理課で九条の下についていた。数字の見方も、線の引き方も、決裁前に潰すべき違和感も、最初に叩き込まれたのはこの人からだった。
九条は感慨を挟まない。
懐かしむ顔もしない。
それが、加藤には少しだけありがたかった。
「確認します」
九条が言う。
「Auroraの法人格は維持。レーベル収益は従来通りAurora会計」
九条は資料へ視線を落とす。
「共同開発費のみ別口座管理。連結決算対象には入れる。ただし、文化側創作物への支出決裁権はAurora側に残す」
加藤は頷く。
「はい」
「完全統合ではない、と」
「完全統合にすると壊れます」
九条の眉が、わずかに動いた。
「文化部門の人は、皆そう言う」
「文化側にもいます。でも、私は数字側も知っています」
加藤は静かに言う。
「壊れる構造は、長期的に赤字になります」
九条は小さく笑った。
「両方に足を置くのね」
「だから線が見えます」
資料が一枚めくられる。
IP帰属条項。
干渉不可条項。
営業強制権の制限。
共同開発費の口座分離。
収益按分の条件。
九条が指で条文をなぞる。
「強いわね」
「弱いと飲み込まれます」
九条は目を上げる。
「あなた、自分の立場は分かってる?」
「はい」
「アトリの連結下に入るのよ」
「知っています」
「それでも線を引く?」
加藤は迷わなかった。
「引きます」
静かだった。
廊下の向こうでは、別の会議の声が薄く聞こえている。
ここで交わされている話は、まだ表には出ない。看板も変わらない。人もまだ大きくは動かない。
けれど、この線を引かなければ、統合は始められない。
九条は椅子に深く座った。
「守りたいのは会社?」
「違います」
加藤はすぐに答えた。
「速度です」
「速度?」
「生活が先に更新される速度。創作が説明より速い速度。それが止まると、数字も止まります」
九条はしばらく黙った。
それから、資料を閉じる。
「相変わらず、数字で変なものを守るのね」
「教わりましたから」
「私はそんな情緒的な教え方をした覚えはないわ」
「数字は情緒より長く残る、と教わりました」
九条は否定しなかった。
少しだけ口元が動く。
「分かったわ。財布は混ぜない」
加藤は軽く頭を下げた。
「ありがとうございます」
「ただし」
九条の目が鋭くなる。
「赤字は許さない」
「当然です」
「三年以内に黒字化」
「やります」
「五年で海外」
「やります」
「文化に営業圧はかけない」
「かけさせません」
九条は立ち上がった。
「あなた、嫌いじゃない」
加藤は苦笑する。
「光栄です」
九条がドアに向かう。
「財布を混ぜるのは簡単」
扉の前で、九条は振り返った。
「責任を混ぜるのは難しいの」
加藤は頷く。
「はい」
「そこを間違えたら、私が止める」
「分かっています」
ドアが閉まる。
会議室に、静けさが戻った。
加藤はしばらく資料を見ていた。
法人格、口座、決裁権、連結。
どれも、表の光には出ない言葉だった。
創作の前には出てこない。ステージにも、カフェにも、ゲーム画面にも映らない。
けれど、ここで線を間違えれば、いずれ全部が止まる。
誰かが作る前に、承認を待つようになる。
誰かが鳴らす前に、採算を説明するようになる。
誰かが生活を始める前に、稟議が必要になる。
それは、Auroraではない。
加藤は資料を閉じた。
財布は混ぜない。
その言葉は、甘い理想ではない。責任を分けるための線だった。
守るためではなく、回すための線だった。
――
数日後。
Auroraオフィスの小さな会議室で、加藤は高澤に資料を渡した。
高澤は表紙だけを見た。
「通ったか」
「通しました」
加藤は椅子に座らない。
そのまま、短く報告する。
「Auroraの法人格は維持。レーベル収益はAurora会計。共同開発費は別口座。連結対象には入りますが、文化側創作物への営業強制権は持たせません」
高澤は資料をめくる。
急がない。だが、必要な場所だけは逃さない。
「九条部長は」
「赤字は許さないそうです」
「だろうな」
「三年以内に黒字化。五年で海外。文化に営業圧はかけない。その条件です」
高澤は小さく息を吐いた。
安堵ではない。
確認だった。
「十分だ」
加藤は頷く。
「財布は混ぜません」
「責任は」
「分けます。ただし、逃がしません」
高澤はそこで、ようやく顔を上げた。
「いい線だ」
加藤は少しだけ表情を緩めた。
「ありがとうございます」
「相沢には?」
「まだ言いません」
「言わなくていい」
高澤は資料を閉じる。
「言うと遊び金だと思う」
加藤は真顔で答えた。
「実験費です」
高澤の口元が、わずかに動いた。
「それなら通る」
会議室の外では、誰かが廊下を歩く音がした。
まだ統合の名前は出ていない。まだアトラボも表には出ていない。
それでも、線は引かれた。
高澤が言った。
「これで、壊さずに動かせる」
加藤は資料を胸の前で抱えた。
「はい」
九ヶ月の水面下で、音より先に動いていたものがある。
数字、口座、責任、決裁。
外から見れば、冷たいものばかりだった。
けれど、置き方を間違えなければ、温度は守れる。
財布は混ぜない。
だから、Auroraは吸収されない。
残ったまま、速くなる。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。