第2話ㅤ九ヶ月前 ― 静かに動いていた

九ヶ月前。


まだ、誰も引っ越しの話をしていなかった頃。


アトリリンクス本社の応接室には、夕方の白い光が差し込んでいた。


窓際の観葉植物も、ガラスのテーブルも、いつも通り整っている。けれど机の上に並んでいる資料だけは、いつもの案件とは少し違っていた。


分厚い紙の束。


技術接続図。


エンジン統合案。


出向配置シミュレーション。


数字もある。


けれど、数字よりも先に図が並んでいた。


どこを繋げば速くなるのか。どこを混ぜれば壊れるのか。どこを分けたままにすれば、動き続けられるのか。


そういう話だった。


「文化部門を子会社化すれば早い」


誰かが言った。


高澤は否定しなかった。


肯定もしなかった。


ただ、資料から目を上げる。


「早いですね。壊れますが」


空気が止まった。


代表は何も言わない。


視線だけを向ける。


高澤は資料をめくった。


「Auroraは製品ではありません。処理系です」


「抽象的だな」


「構造です」


モニターに表示される。


開発人数。


レーベル収益。


IP保持比率。


過去三年の市場波形。


数字は嘘をつかない。だが、全部ではない。


「買えば止まります」


静かに言う。


「統合すれば速くなります」


代表が腕を組んだ。


「どう違う」


高澤は迷わず答えた。


「買収は、我々が主語になります。統合は、速度が主語になる」


沈黙が落ちる。


誰も笑わなかった。


「三年計画です」


高澤は続けた。


「ただし、最初の九ヶ月は水面下で動かしてください」


「何を」


「出向を回す。研究を混ぜる。文化側に営業圧をかけない。エンジンを共同で作る」


法務が口を開く。


「IPは」


「共同保有。ただし文化側の創作物に、営業強制権は持たない」


財務が眉をひそめる。


「利益は遅れる」


「はい」


「それで通すのか」


高澤は視線を上げる。


「遅れるだけです。消えません」


代表が初めて小さく笑った。


「面白いな」


それだけだった。


承認は出ない。


否決も出ない。


けれど、その日から、静かに何かが動き始めた。


――


六ヶ月前。


Auroraオフィスの片隅に、林悠真が座っていた。


アトリリンクスに初期からいるシステムリーダーだ。


肩書きは大きく変わらない。それでも、任されている線は明らかに太くなっていた。


林はコードには触れない。


口も出さない。


ただ、接続図だけを書き直している。


どこが詰まり、どこが重なり、どこなら混ざっても壊れないか。


それだけを見ている。


Auroraの速度を読める人間ではない。


風や音の意味を、最初から分かっているわけでもない。


それでも林は、システムの詰まりを見れば分かる。


人が止まる場所。承認が遅れる場所。言葉が違いすぎて、同じ画面を見ているのに別のものを見ている場所。


そういう詰まりを、黙ってほどいていた。


その少し後ろで、白石が資料を整えている。


会議の順番。


共有範囲。


外に出す言葉の粒度。


視線は上げない。


だが、流れは崩れていない。


違和感はあった。


だが、摩擦はなかった。


相沢は気にしない。


「混ぜるなら早くしろ」


凪が笑う。


「壊れるぞ」


壊れなかった。


コードが行き来する。


人が行き来する。


言葉が少しずつ揃う。


看板はまだ外していない。


――


三ヶ月前。


高澤のデスクに、人事内示の通知が置かれていた。


印刷された紙だった。


統括部長。


まだ役員ではない。


だが、線は動いた。


相沢がそれを見つける。


「偉くなったな」


「なってない」


「名刺変わるだろ」


「肩書きは装置だ」


「似合わねえ」


高澤は笑わない。


「必要だ」


相沢は紙をつまみ上げ、しばらく眺めてから机へ戻した。


「で、装置になるのか」


「なる」


「物好きだな」


「壊れるよりはいい」


相沢はそれ以上言わなかった。


そういうところで、高澤は引かない。


引かないから、任せられることもある。


――


数日前。


役員会議。


最終承認。


Aurora統括部長。


統合運用責任者。


干渉不可条項。


三年黒字化計画。


言葉だけを並べると、会社の資料に見える。


実際、会社の資料だった。


けれど、その奥にあるのは、名前を変えずに形を変えるための線だった。


代表は一言だけ言った。


「壊すなよ」


高澤は答えた。


「壊しません」


承認印が押される。


派手な音はしない。


拍手もない。


ただ、紙の上で、九ヶ月前から動いていたものが表へ出た。


――


そして現在。


アトラボ三階。


新しいプレート。


Aurora総合開発本部。


看板は変わらない。


統合は、数日前に急に決まったのではない。


九ヶ月、静かに動いていた。


誰も気づかない速度で。


相沢がモニターを見ながら言う。


「急に変わったみたいに見えるな」


高澤は窓の外を見る。


「急じゃない」


「じゃあ何」


「積み上げだ」


下の階で、ジャズの音が鳴る。


一階のカフェから上がってくる音だった。


Auroraは吸収されなかった。


混ざった。


速度を保ったまま。


静かに、壊れない角度へ移動していた。


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