Aurora Labo
槇瀬璃子
第1話ㅤ看板は降ろさない
Atrium Laboratory。通称アトラボ。
エレベーターの扉が開くと、三階正面の壁に新しいプレートが掛かっていた。
『Aurora総合開発本部 統括フロア』
黒地に銀文字。
フォントは新しく整えられている。けれど、「Aurora」のロゴだけは昔のままだった。
誰も変えなかった。
誰も降ろさなかった。
ここは、もうAuroraだけのものではない。
アトリリンクスR&Dのメンバーも出入りする。共有会議室は増え、カードキーの権限も更新された。
廊下を歩く人間も、机に置かれる端末も、ここを流れる仕事の種類も変わっている。
それでも、名前は残った。
「名前、残したんですね」
後ろを歩いていた若手エンジニアが、小さく口にする。
高澤は足を止めない。
「残す必要がある」
「でも、統合ですよね」
「統合だ」
歩幅も声も変えずに返す。
「吸収じゃない」
若手はそれ以上聞かない。
言葉の温度だけで、十分伝わったからだ。
三階の奥、窓側へ移されたデスクに高澤の席がある。
役職名は変わった。
統括部長。
名刺にはそう刷られている。けれど、机の端に置かれた旧Auroraロゴのキーホルダーの方が、この場所ではよほど重かった。
相沢は奥の席でモニターを睨んでいた。
高澤はそのデスクの脇で足を止める。
「なんで本部なんだよ」
視線は画面のまま、相沢が言う。
「開発してるからだ」
高澤は淡々と返した。
「前からしてた」
「規模が違う」
相沢が鼻で笑う。
「言い方だけ偉そうだな」
「予算も偉くなった」
そこで相沢の手が止まる。
「……それは強いな」
三階の奥では、Auroraエンジンのテストが走っている。
アトリのAI班がログを確認し、その少し手前では白石がタブレット片手に指示を飛ばしていた。
「そのログ、外には出さないで。まだ翻訳が追いついてない」
誰も異論を挟まない。
処理だけが進んでいく。
「高澤さん、このログは後で整理回します」
高澤は短く頷いた。
返事はそれで足りる。
ひとりだけ、画面ではなく全体を見ている視線がある。
誰が遅れているか。どこが詰まるか。何を先に通せば止まらないか。
声に出さず、構造だけを追っている。
B1のサーバーラックは増設済み。
五階の収録室は今月末まで予約が埋まっている。
一階のカフェでは、新しいブレンドの香りが朝から上まで届いていた。
建物は同じだ。
だが、重心が変わった。
高澤は、もう一度だけ壁のロゴを見た。
Aurora。
長かったな、とも、ここまで来たな、とも言わない。
そういう言葉は、この世界にはあまり似合わない。
代わりに、小さく呟く。
「壊させない」
誰に向けた言葉でもない。
確認に近かった。
相沢が椅子を回し、こちらを見る。
「で、結局さ」
「何だ」
「俺たち、アトリの子会社になったわけ?」
高澤は否定もしないし、肯定もしない。
「子会社ではない」
「じゃあ何」
「統合運用だ」
「分かりにくい」
「財布は混ぜない。責任と場所だけ繋ぐ」
相沢は数秒黙ったあと、少しだけ眉を上げる。
「それ、強いの?」
「決裁が一段増えた」
「増えただけ?」
「使える開発枠が二桁増えた」
相沢は素直に頷く。
「……やっぱ強いな」
笑いが小さく起こる。
三階の奥で、ビルド完了の通知音が鳴った。
誰も騒がない。
拍手もない。
成功演出もない。
ただ、次の処理がそのまま走り出す。
相沢が画面から目を離し、高澤を見る。
「壊れてないよな」
高澤はロゴから視線を外さない。
「壊してない」
短い返答だった。
相沢は立ち上がり、伸びを一つして笑う。
「なら、回せる」
「前より速く?」
「前より深く」
高澤はそこでようやく、ほんの少しだけ口元を緩めた。
Auroraは、看板を降ろさなかった。
名前を残したまま、形だけを変えた。
止まらないために。
壊さないために。
降ろさなかった名前が、また静かに動き出していた。
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