ここに居ない

九重 有

第1話ここに居ない



最初におかしいと思ったのは、笑えなくなったことだった。


職場で同僚が冗談を言った。

皆が笑った。

私も口角を上げたつもりだった。


でも、頬が動いていなかった。


鏡を見ると、ちゃんと笑顔の形をしている。

なのに、内側が何も動いていない。

心臓が、冗談を理解していない。


「大丈夫?」と聞かれた。

私は「大丈夫」と答えた。


声は出た。

意味も合っていた。

ただ、その言葉が“誰のもの”なのか分からなかった。


帰宅途中、駅のホームで人と肩がぶつかった。

謝られた。

私は会釈した。


触れたはずなのに、痛みがなかった。

体の輪郭が、少し薄くなった気がした。


家に帰り、電気をつける。

部屋はいつも通りだった。

ベッドも、机も、コップもある。


私だけが、軽い。


冷蔵庫のプリンを食べようとした。

スプーンは持てる。

口に運べる。

味も分かる。


でも、「おいしい」が出てこない。


味覚はあるのに、感情が追いつかない。

まるで、感情だけが遅延しているみたいだった。


翌日、同僚に言われた。


「最近、存在感なくない?」


冗談のつもりだろう。

みんな笑った。


私は笑えなかった。


その日から、視線が私を避けるようになった。

避けているというより、

通り抜けている感じだった。


会話の輪に入っても、

途中で話題が途切れる。

私が話すと、相槌が一拍遅れる。


「……あ、ごめん、今なんて?」


ちゃんと声は出ている。

言葉も合っている。

なのに、届くまでに時間がかかる。


まるで、空気越しじゃなく、水越しに話しているみたいだった。


夜、風呂に入る。

湯気の中で、自分の腕を見る。


湯気の向こう側の腕が、少し透けて見えた。


怖くはなかった。

不思議と、焦りもなかった。


ただ、

「やっぱり、そうなんだ」と思った。


私は、感情を出さなくなった。


怒らない。

泣かない。

笑わない。


傷ついても、

「傷ついた」と思う前に、

その感覚が霧みたいに消える。


感情が出ない。

だから、存在が定着しない。


人は、感情で輪郭を作っている。

怒ったり、喜んだり、悲しんだりして、

「ここにいる」と主張している。


私は、主張をやめた。


ある朝、通勤電車で席が空いた。

私はそこに立っていたのに、

人がその場所に座った。


体が重ならなかった。

すり抜けた。


誰も、驚かなかった。


会社の受付で、社員証を出した。

読み取り機が反応しなかった。


「磁気、壊れてます?」と聞くと、

受付の人は困った顔をした。


「……すみません、どちら様でしたっけ?」


名前を言った。

部署を言った。

今日の業務内容も言った。


彼女は、ずっと画面を見ていた。


「……登録、ないですね」


その瞬間、胸が少しだけ、ぎゅっとした。


久しぶりに、感情が動いた。


苦しい、というより、

「惜しい」みたいな感じだった。


惜しい、という感情は、

まだ私の中に残っていた。


帰り道、交差点で信号を待つ。

横断歩道の白線が、足元から消えていくように見えた。


いや、違う。

私の足が、白線を踏んでいない。


アスファルトの上に、

影が落ちていなかった。


空は青い。

車は走る。

人は笑っている。


世界はちゃんとある。


私だけが、

世界の「対象」から外れていく。


家に帰ると、

部屋が少し広く感じた。


家具の間に、

私の居場所がなくなっている。


鏡の前に立つ。

顔は見える。

でも、目が合わない。


視線が、鏡の奥に抜けていく。


「ここにいるよ」


声を出した。

ちゃんと空気が震えた。


でも、その言葉に、

意味が付かなかった。


「いる」という感覚が、

もう私の中にない。


最後に残ったのは、

「消えたくない」という気持ちだった。


それも、

だんだん薄くなっていく。


夜、電気を消す。

暗闇の中で、

自分の体がどこまであるのか分からない。


指先が、

胸が、

喉が、

順番に無くなっていく。


怖い、と思う前に、

「まあ、そうか」と思ってしまう。


それが一番、怖かった。


翌朝、

その部屋に、

誰もいなかった。


ベッドは乱れている。

コップも洗っていない。

カーテンも閉じたまま。


ただ、

「住んでいるはずの人」だけが、

存在しなかった。


そして、

誰もそれを不思議に思わなかった。


ただ一つだけ、

エアコンのリモコンに貼られた

小さな付箋が残っていた。

「ここに居る」


文字は、

もう、誰の字だったか分からない。

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ここに居ない 九重 有 @KAGERI123

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