第30話: 吹き溜まり
剣の音が消えた街は、よく晴れていた。
石畳は洗われ、血の跡はとうに消え、兵の姿もない。
代わりに、路地の奥で――
何かが、ゆっくりと腐っていた。
その日、吹き溜まりの区画で小さな争いが起きた。
元戦士の男が、パンを奪おうとしただけだ。
怒鳴り声。
揉み合い。
突き飛ばした腕が、想定よりも強かった。
倒れたのは、子供だった。
石畳に頭を打つ、乾いた音。
泣き声は上がらなかった。
代わりに、異様な静けさが落ちた。
母親が駆け寄る。
抱き上げる。
揺さぶる。
「ねえ……ねえ、起きて……?」
返事はない。
瞳は閉じたまま、呼吸だけがかすかに続いている。
誰かが言った。
「医者を――!」
誰かが言った。
「兵を呼べ!」
でももう、兵はいない。
剣を持つ者はいない。
この街は、平和だったから。
母親は叫んだ。
「どうして!!」
喉が裂けるほどの声だった。
理屈でも、罵倒でもない。
ただ、意味を求める叫び。
「なんでこの子なの!!
なにをしたっていうの!!」
その声は、かつて城壁の上で
一人の若き王が神に向かって放った声と、
驚くほどよく似ていた。
——なぜ救わない。
——なぜ選ばない。
——なぜ黙っている。
やがて、法が来た。
元戦士は捕らえられた。
裁きは迅速だった。
「暴行による重過失。
被害者は意識不明。
よって——」
判決は妥当だった。
誰も異を唱えなかった。
罪は、裁かれた。
だが母親は、子を抱いたまま立ち尽くしていた。
判決を聞いても、涙は止まらなかった。
「……それで、この子は……?」
誰も答えなかった。
答えられる者はいなかった。
神は沈黙している。
魂の粛正はない。
奇跡もない。
優しい支配の下で、
世界は今日も正しく動いていた。
ただ一つ、
叫びだけが、行き場を失っていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます