第29話: 偽りによる腐敗と…



グラナディア軍・老兵ヴァルドの話


ヴァルドは、今日も剣を研いでいた。

戦いはもう、ない。


砥石に水を含ませ、一定の角度で刃を当てる。

この手つきだけは、何十年経っても狂わなかった。


剣は美しかった。

刃こぼれもなく、錆もない。

まるで――一度も役目を失ったことがないかのように。


だが、それが一番の嘘だった。



かつてグラナディア軍は、命を賭けて前へ進んだ。

敵がいた。

守るべき街があった。

そして、失ってはならない仲間がいた。


剣を抜く理由は、いくらでもあった。


今は違う。


街は穏やかで、子どもたちは兵士を怖がらない。

むしろ興味深そうに眺めてくる。


「おじいちゃん、それなに?」


剣を指さして聞かれた時、

ヴァルドは一瞬、言葉に詰まった。


「……昔の道具だ」


それ以上は、言えなかった。



レオニウス統治下で、世界は変わった。

罪は裁かれる。

だが魂は裁かれない。


戦争は否定され、武力は「不要なもの」となった。

兵士は守護者ではなく、象徴になった。


剣を携える理由は、

「万が一のため」

という曖昧な言葉に置き換えられた。


その“万が一”は、

ヴァルドが生きている間、

一度も訪れなかった。



ある日、命令が下った。


「今後、都市内での剣の携行を禁ずる」


理由は簡潔だった。

民に不安を与えるから。


誰も反論しなかった。

反論できるほどの怒りも、もう残っていなかった。


ヴァルドはその夜、

剣を壁に立てかけた。


外した瞬間、

肩が、驚くほど軽くなった。


それが、何よりも辛かった。



剣がなくても、世界は回る。

街は平和だ。

人は笑っている。


それを否定する理由は、どこにもない。


だが――

ヴァルドは知っていた。


剣とは、敵を斬るためのものではない。

覚悟を引き受けるための重さだった。


その覚悟を、

この世界はもう必要としていない。



夜更け、彼は独りごちる。


「……いい時代になったな」


誰に向けた言葉でもない。

ただ、そう言うしかなかった。


砥石はもう使わない。

剣も、抜かれることはない。


罪は裁かれる。

だが、

覚悟を使う場所は、どこにも残されていなかった。


それでもヴァルドは心のどこかで思う


「この世界はまだ終わっちゃいない」


と—



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る