第22話: ヴァルキリーの主人



ヴェルサニア王都、白石の大聖堂。

戦の気配が国境を覆い始めたその日、空は異様なほど静かだった。


剣を携えたイーリスは、聖堂の奥――誰も入ることを許されぬ祭壇前に、ただ一人膝をついていた。


白金の鎧を脱ぎ、翼も顕現させていない。

それは戦士ではなく、従者としての姿だった。


「……主よ」


名を呼ぶことすら、久しくしていなかった。

神々が沈黙してから、あまりにも長い時間が経っていたからだ。


だが、その瞬間。


空が“裏返る”。


聖堂の天井が、夜空へと溶け落ちる。

星々が回転し、逆さまに並び、やがて一つの“座”を形作った。


そこに在ったのは、老人だった。


隻眼。

長い白髭。

だがその視線は、雷霆よりも鋭い。


神オーディン。


「久しいな、イーリス」


声は低く、静かで、世界そのものが喋っているかのようだった。


イーリスは深く頭を垂れる。

「……お呼び立てしてしまい、申し訳ありません。ですが今、世界は――」


「知っている、そして御主がこうして来ることも」


オーディンは遮る。

その隻眼は、過去も未来も同時に見ているかのようだった。


「神の沈黙を、好機と誤解した者が動き始めた」


イーリスの拳が、わずかに震えた。

「北方の魔導国家……アルカディウス。レオニウス」


「うむ」


オーディンは立ち上がらない。

玉座に深く腰掛けたまま、ただ言う。


「だが、我らは裁かぬ」


イーリスは顔を上げる。

「……なぜですか。彼の者は、禁忌に手を伸ばしました。人の身で、神の代行を名乗ろうとしている」


「それでもだ」


オーディンの声は揺るがない。


「時は“選ばせる時代”だ。

救われるべき者を、神が決める時代は、終わった」


沈黙が落ちる。


「見届けよ、イーリス。

剣を振るうな。導くな。

ただ――委ねよ」


その言葉は、祝福にも呪いにも聞こえた。


「……御意」


イーリスはそう答えるしかなかった。

ヴァルキリーとは、戦場で魂を選ぶ者。

だが今、選ぶことすら許されていない。


空が閉じ、聖堂は元に戻る。

神は再び沈黙へと帰っていった。



その頃、北方。


アルカディウス王城、黒曜の広間。

レオニウスは玉座に深く腰掛け、楽しげに指を鳴らした。


「聞いたわ」


側近がひざまずく。

「……ヴェルサニアで、神の顕現があったと」


レオニウスの唇が、三日月のように歪む。


「ふふ……そう。

つまり神は“まだ見ている”ということね」


立ち上がり、両腕を広げる。


「でも見なさい。――何も、誰も、裁かない。

導かない。

ただ“委ねる”」


その声が、広間に反響する。


「それってつまり、こういうことでしょ?」


レオニウスは高らかに宣言した。


「裁きは空席。

ならば、座る者が必要じゃない」


禁忌術式で影を失った兵士たちが、一斉に膝をつく。


「神が見届けるだけなら――


私が裁くわ」


笑みは、もはや愉悦に近い。


「全軍に通達なさい。

       これは“戦争”じゃない」


指を天へと突き上げる。


「神の裁きの代行よ。

     世界に知らせなさい――


神は沈黙した。

そして今、私がその代行者であると!」


その宣言は、稲妻のように国中を駆け巡った。



同時刻。

グラナディア学級の野営地。


報せを聞いたザコは、右眼を押さえる。

宿る大天使ミカエルの眼が、嫌なほど強く脈打っていた。


「……“委ねた”だと?」


遠くで雷鳴が鳴る。


「ふざけんなよ……

それを好き勝手に解釈する奴が、必ず出るって――

わかってたはずだろ、神様」


ザコは立ち上がる。


「来るぞ。

これはただの侵攻じゃない」


仲間たちを見渡し、静かに言った。


「裁きの名を騙る戦いだ」


空は、どこまでも静かだった。

神は、まだ沈黙を守っている。


だがその沈黙が、

最も危険な“余白”になりつつあることを――

誰よりも、人間たちが理解し始めていた。


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