第16話 : 停戦



砦を包んでいた空気が、変わった。


風が止んだわけでも、雲が割れたわけでもない。

ただ――世界そのものが、一拍、息を呑んだような沈黙があった。


「……地形魔法、発動中止」


その声は静かだったが、命令だった。

砦の上空に展開されていた魔法陣が、霧が溶けるように消えていく。

撤退猶予期間はまだ半月はあろうとも思われた。


ヴェルサニア、ヴァルキリーのイーリス。


彼女は城門前に立ち、ザコを、正確には――その右眼を見ていた。


「猶予期間はこれを持って解除する」


周囲がざわめく。

ここまで進んだ戦、ここで止める理由など誰にも分からない。


だが、イーリスの表情だけは硬直していた。

恐怖でも、迷いでもない。


――理解してしまった者の顔だった。


「……あなたの中にいるのね」


ザコは何も答えない。

代わりに、彼の視界が、わずかに青く染まった。


『……久しいわね、選別官』


声は、直接イーリスの内側に響いた。

外には漏れない。魂にだけ届く声。


イーリスは膝をつき、それでも必死に体勢を保つ。


「そんな……そんなはずは……

あなたは、天界に……裁定者は……」


『今も、裁定者よ』


青い右眼が、わずかに瞬いた。


『けれど――私は、角笛を吹かない』


その言葉に、イーリスの呼吸が止まる。


「……では、なぜ……

ラミエルが地上に現れたと聞いた…それはつまり…!」


その名が出た瞬間、空気が軋んだ。


『黙示は、起きている』


淡々とした声。

裁く者の声ではなく、選び続けてきた存在の声。


『けれど、終末は一つじゃない。

救済も、滅びも、選別も――

私は“今は”選ばない』


「……選ばない……?」


イーリスは震える声で繰り返す。


「裁定者が……選別を放棄する……?」


『放棄じゃないわ』


右眼の光が、わずかに和らいだ。


『委ねるの』


その瞬間、イーリスは悟った。


――目の前にいるのは、神の代行者ではない。

――神ですら躊躇した判断を、背負っている存在だと。


「……勝てるわけが、ない……」


ぽつりと零れた言葉。


「神の眼を宿す者がいる軍に……

どんな戦争も、意味を持たない……」


彼女は剣を下ろした。


「全軍撤退せよ!

  グラナディアとの戦は、ここで終わりよ」


周囲が凍りつく。

だが、イーリスの視線は、もう戦場にはなかった。


「……一つ、聞かせて」


ザコを見上げる。


「アルベルト・グラナディア王……

彼が“蘇生術”を持つという噂は、本当?」


ザコの内側で、ミカエルが一瞬、沈黙した。


『……可能性は、高い』


その答えを聞いた瞬間、

イーリスはすべてを理解した顔になった。


「……だから、呼ばれたのね」


ザコは、初めて自分の意思で口を開いた。


「……なあ」


ぎこちない声。


「俺さ、王に……会わなきゃ、ダメなんだよな」


右眼が、静かに肯定する。


『お願いするわ、ザコ』


『彼に――会わせて』


空はまだ落ちていない。

角笛も、鳴っていない。


だが、

黙示はすでに、始まっていた。


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