第36話 盤の在処

 その日は、特別な事は何も無かった。案件は一件。重くも軽くもない。判断が必要で、判断すれば終わる類いのものだった。

 

 珠音は、いつも通り資料を読み、配置を考え、逃げ道を想定し、最悪を排除した。


「ここで切ります」

 

 誰も反論しない。誰も理由を聞かない。

 

 それが最短で、最小被害で、最も再発しない手順だった。

 

 案件は終わった。

 

 帰り道、三人組は疲れ切っていたが、不満は無かった。結果が出ているからだ。


「……助かりました」 誰かが、ぽつりと言った。


 珠音は頷かなかった。否定もしなかった。

 

 事務所に戻ると、珠子がソファに座っていた。チョコバーを齧りながら、何も言わずに珠音を見る。


「もう、聞かないんですか?」  


 珠音が言った。


「何を?」


「私が、どうなったか」

 

 珠子は少しだけ考え、肩をすくめた。


「聞いたところで、変わらないでしょ」


「はい」

 

 それで十分だった。

 

 夜。

 

 珠音は会議室に入る。ホワイトボードには、消されない文字が残っている。


『判断役の明確化』

 

 珠音はペンを取らなかった。新しく書く事は、もう無い。盤は完成している。動かす必要がない。

 

 珠音は、静かにボードを見つめてから、電気を消した。


 暗闇の中でも、配置は見えていた。逃げ道も、結果も、例外も。それは知識ではなく、癖だった。思考ではなく、機能だった。


「私は、壊れていません」


 誰に向けた言葉でもない。


 確認でも、主張でもない。

 ただの事実確認。


 珠音は部屋を出て、扉を閉めた。

 

 盤は、そこに残ったまま。誰も触れない。だが、誰かが必要とする。

 

 それでいい。

 

 判断は、今日も静かに生きている。

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