第10話(最終話)「再生の珈琲店で、あなたと」

春の陽射しが柔らかく喫茶「バロン」の窓辺を照らす朝。カップを手にした常連客たちが、互いに笑い合いながら言葉を交わしている。年齢も、過ごしてきた人生も違う者たちが、自然とこの場所に集い、静かに居場所を分け合う時間。

そのカウンターの奥で、螢はコーヒー豆を挽いていた。


軽やかな香りが立ち昇る。深煎りの豆に丁寧にお湯を落とすたび、彼女の仕草には迷いがなかった。かつては手を震わせていたのに。今は、確かに彼女自身の温度で、誰かの日常を支えている。


テーブルには一通の手紙が置かれていた。春らしい桜色の封筒。紗月からだった。


「高校、無事に受かりました!バロンの皆さんにもよろしく。今度遊びに行きます」


螢は微笑んだ。もう一通は弘美から。看護学校に合格したという報告。どちらの筆跡も、かつての沈黙が嘘のように、生きる言葉に満ちていた。


そんな朝の穏やかな時間に、洸が入ってきた。スーツ姿は少し窮屈そうだが、彼の顔には充実した疲労と静かな緊張が漂っていた。


「皆さん、おはようございます」


「なんや洸くん、改まって」


真地が眉を上げると、洸は少し照れながら皆を見渡した。


「実は……『フリースクール アルカディア』が、来週で一周年を迎えるんです。

そこで、皆さんにも記念イベントに参加していただけたらと思って」


店内が小さくどよめく。


「おお、それはめでたいな」


「一年、あっという間だったね」


「ほんま、よう頑張ったわ、お前ら二人とも」


聖(ひじり)、加藤、矢鱈(やたら)が代わる代わる祝いの言葉を口にする。


「……皆さんがいたから、続けてこられました。子どもたちの居場所を守るために、支えてくれて、本当にありがとうございました」


洸の声が少しだけ震えた。その瞬間、真地がふっと目を細め、低く問いかけた。


「で? 本題はそこからやろ。……何を考えてんのや?」


洸はカウンター越しに螢を見た。彼女はコーヒーを注ぎ終え、顔を上げた瞬間、目が合った。微笑みながら小さく首をかしげる螢に、洸は息を吸い込む。


「僕……螢さんに……プロポーズ、したいんです」


一瞬、空気が止まったかと思うほどの沈黙。そして、真地の顔がぱっと綻んだ。


「ようやく腹が据わった顔になったな。……行ってこい、坊主」


洸は小さく頭を下げると、何かを決意したように外へ出て行った。


春風が頬を撫でる午後。

「フリースクール アルカディア」の庭では、手作りのガーランドが風に揺れ、笑い声が絶え間なく響いていた。


ピクニックシートの上では、子どもたちが紙皿にケーキを盛りつけ、常連客たちがじゃがいもを揚げている。バロンの仲間たちは、もはや「客」ではなく「家族」だった。


挨拶の時間になり、洸が人々の前に立った。


「今日は、ここまで支えてくださった皆さんに感謝を伝える場にしたいと思って、イベントを企画しました。

僕が最初にこの場所を立ち上げたとき、たった一人でした。でも……喫茶バロンで出会った皆さんが、僕に“信じてくれる人”がいることを教えてくれました」


彼は螢を振り返る。


「螢さん――あなたがいたから、僕はここまで来られました。子どもたちを支えたいと思う気持ちと同じくらい、あなたを守りたいと思っています。

この一年、誰かの未来を信じてきました。でも――僕の未来には、あなたが必要でした」


彼はポケットから小さな箱を取り出し、皆の前で膝をついた。


「螢さん……結婚してください」


その場が一瞬静まり返る。そして真地の軽快な声が響いた。


「螢ちゃん……素直になったらええで!」


顔を真っ赤にした螢が、少しうつむいてから、ゆっくりと言葉を紡ぐ。


「皆さんの前で言うのは、恥ずかしいですが……。私も、これからも洸さんと一緒に歩んでいきたいです。

……パートナーにしてください」


「洸先生? 螢先生をお嫁さんにするの?」


その声は、誰よりも小さな少女のもので、誰よりも強く、胸を打った。

ずっと言葉を発せなかった小学生の里穂(りほ)が、まっすぐ二人を見つめて、初めて口を開いたのだった。


「わあ……初めて喋った……」


「すごい、里穂ちゃん……!」


涙ぐむ螢が彼女を抱きしめると、他の子どもたちも次々に「おめでとう!」と駆け寄ってくる。


拍手と歓声の中で、真地がぽんと手を打った。


「ちゅうわけで、今日はもう一組、めでたいカップルがいますねん!」


目を丸くする螢の前で、聖(ひじり)が手を挙げた。


「私……実は渉さんと、お付き合いしてたんです。こっそりね」


「ええー!? そうなの、お父さん!?」


「……まあ、なんというか……そういうことだ…」


螢はあっけにとられた後、くすりと笑った。


「でも……私が新しい人生踏み出すまで待っててくれてたんだね」


「まあな。お前がちゃんと幸せになれるまで、こっちが幸せになるのも気が引けてな」


「ほんと、そうね。」と聖。


「螢ちゃんが洸くんと歩いていけるってわかったから、私たちもちゃんと歩き出そうって思ったの。今日がちょうどいい節目かなって」


矢鱈が立ち上がり、グラスを掲げる。


「二組の幸せを祝して、もう一度乾杯や!」


皆のグラスが春の光に重なり、カランと音を立てた。


。。。。。


イベントが終わった夕暮れ時、庭のベンチに並んで腰掛けた螢と洸。

沈む陽を背に、空には夜の帳が降りはじめていた。風は穏やかで、手をつなぐだけでぬくもりが伝わる。


「これからも、二人で子どもたちを支えていこう。そして、僕はあなたを支えていきたい」


洸の声は真っ直ぐだった。


螢は彼を見つめて、小さくうなずく。


「私も、全力であなたを支えていきます。これからも、よろしくお願いします。洸さん」


二人の影が重なり、そっと唇が触れ合った。


朝。

喫茶「バロン」の窓辺にまた陽が差し込む。コーヒー豆を挽く音。ジャズの低い旋律。笑い声。


いつも通りの、けれど確かにあたたかい一日が始まっていた。


「アルカディア」の子どもたちは、今日も戸惑い、笑い、泣き、そして、少しずつ言葉を取り戻していく。


洸も螢も、誰一人置いていかない。どんなに遠回りでも、“未来の笑顔”を信じて寄り添い続ける。



過去の傷は消えない――だが、誰かの光にはなれる

居場所は、誰かが“信じて、待っていてくれる”ことで生まれる

再生とは、支え合い、歩み寄り、共に「今日」を積み重ねること…


(完)

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喪失の先に、あなたがいた かわまる @kawamaru359

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