消えゆく味

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消えゆく味


 松山空港の自動ドアが開いた瞬間、自然とレザージャケットの男に視線が集まった。


 そのレザーは極めてきめ細かく、フラッシュの光を受けて多層的で複雑な光沢を反射する。記者団は波のように押し寄せ、白く刺す照明とシャッター音の轟音の中を、男は急ぐことも立ち止まることもなく進む。穏やかな笑みを浮かべて人波をすり抜け、やがて黒い車のドアが閉じると同時に姿を消した。


 ―――


 記者会見場の長テーブルは、縮尺化された台湾の食のサンプルセットのようだった。

 屋台料理から北・中・南を代表する郷土料理、ミシュラン掲載店の一皿、さらには所在すら特定しにくいプライベートダイニングの料理までが一堂に並ぶ。いずれの料理もフラッシュの下で安定した艶を保ち、湯気を立ち上らせながら、サンプリングされるのを待っている。


 レザージャケットの男が上座に着くと、最初に供されたのは価格帯として最もベーシックな『琥珀色の魯肉飯こはくいろのルーローハン(甘辛い醤油ダレで煮込んだ豚角切りを白飯にかけた、台湾定番の丼)』だった。

 脂身と赤身が程よく混ざった角切り肉は、長時間の煮込みによって深いカラメル色へと収束し、ゼラチン質の光沢を帯びている。それが熱々で粒立ちの明確な台梗九号米の上に広がり、タレは米粒の隙間へと浸透する。軽く焦がしたエシャロットの香ばしさと氷砂糖の甘みが、安定した下位風味分布を形成し、視覚入力だけで唾液分泌反射を誘発する。


 続いて中価格帯の代表サンプル、『半筋半肉の紅焼牛肉麺はんすじはんにくのホンシャオ・ニュウロウメン(牛すじと赤身を半々に入れた、八角香る醤油ベースの台湾牛肉麺)』。

 濃い褐色のスープ表面には、極薄の辣油が膜のように浮かび、八角と豆板醤が混ざり合った複合的な香気を放つ。スネ肉は繊維分離度が高く、半透明の牛スジは柔らかさと弾性を両立させている。立ち上る湯気とともに、肉の旨味と手打ち麺の麦香が鼻腔へと流れ込み、感測システムに対して持続的かつ非線形な刺激を与える。


 判断を最も遅延させたのは、テーブル中央に置かれた私房料理限定の――『砂鍋雞湯シャーグオ・ジータン(老いた砂鍋で長時間火を入れ、地鶏と干し貝柱を重ねて旨味を引き出した台湾の鶏スープ)』だった。


 台北でも予約困難とされる私房料理店の一品で、鍋の中央には丸ごとの鶏がはっきりと姿を現していた。

 淡金色に濁った湯は厚みを持ち、皮下から溶け出した膠質が全体を包み込む。

 具材は隠されていない。むしろ、すべてが露わだ。

 それでも、その重みと密度は、ただ眺めるだけでは把握しきれなかった。


 この湯は、短時間で完成するものではない。

 火を入れては落とし、沸かしては静める。その反復の中で、鶏の旨味は徐々に溶け出し、過不足のない濃度へと導かれる。

 工程の順序や時間、判断の履歴までは記録できる。

 だが、その結果として立ち上がる味そのものは、数式にも言語にも還元されなかった。


 かつては当たり前のように受け継がれてきたが、

 今ではこの工程を最初から最後まで引き受ける者はほとんどいない。

 時間がかかりすぎ、失敗すればすべてが無に帰す。

 それでも、この湯を知っている者にとって、代替は存在しなかった。


 莫大な資産を背負ったその男は、右手をマイクと箸の間で一瞬停止させる。

 視線は三つの料理の間を移動する――

 すでに記憶の奥で味を結びかけている魯肉飯、

 深さを予感させる牛肉麺、

 そして、まだ手を付けられていない砂鍋雞湯。


 冷硬な高級レザーに包まれたまま、彼はわずかに眉を寄せる。

 それを合図に、システムは高負荷状態の意思決定フェーズへと移行した。


 まず第一の魯肉飯。

 基礎処理ループとして定義される。醤油とエシャロットの香気は初期サンプリングを完了し、嗅覚信号は周波数エンコードを経てパラメータ化され、テンポラリバッファへ書き込まれる。豚脂ゼラチン質が口腔と舌面に接触した際の付着係数および接触インピーダンスパラメータがタグ付けされ、咀嚼後の米粒の形態変化挙動と空間拡散ベクトルはコミットされる。


 第二の紅焼牛肉麺。

 システムは広ダイナミックレンジ入力下の非線形シミュレーション段階へ移行する。辣油による刺激は舌尖温度上昇としてモデル化され、瞬時刺激応答曲線を形成する。八角と花椒の揮発成分は再構成されてタグ付けされ、半筋半肉が舌面で分離する際の抵抗値と変形テンソルは、多体動力学モデルに組み込まれ、まとめてコミットされる。


 第三の砂鍋雞湯。

 嗅覚と味覚の重み付き指標がほぼ同時に立ち上がり、高次元特徴ベクトルの抽出プロセスが起動する。

 砂鍋の湯は、入力としては濃厚で明確でありながら、その内部には長時間にわたる加熱と静置の反復が刻み込まれている。

 老いた砂鍋の中で蓄積された熱履歴は層となり、鶏の脂と骨の旨味は、濁りを越えない臨界点で留め置かれていた。

 甘味と塩味の信号は舌面全体に広がり、左右の感測チャネルへ同時に流入する。

 粘度、口腔内に残留する膠質の減衰時間、そして味覚として立ち上がった最終的な像が、ひとつの集合として統合され、計算資源へとコミットされる。


 三組の特徴集合は統合され、

 不可逆な状態スナップショットへと変換された。


 スプーンを置き、目を閉じる。

 すべてのコミット可能な項目が完了した後、口元には最も率直で、どこか子供じみた満足の痕跡が浮かんだ。


 ――間に合った。

 これは、まもなく消えていく味だ。

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