「⚓長安変奏曲」空海と橘逸勢は804年(延暦23年)5月12日、第16次遣唐使の一員として難波の津を大唐帝国に向けて出航した。

⚓フランク ✥ ロイド⚓

🔵第1章 長安へ

第1話 遣唐使たちの船出


 博多津は朝の陽光に照らされ、穏やかな博多湾の水面がキラキラと輝いている。湾の北側には、砂州である海の中道(うみのなかみち)が細長く伸び、対岸には志賀島(しかのしま)の緑豊かな丘陵がそびえる。西には糸島半島のなだらかな稜線が続き、湾全体を天然の要塞のように守っている。潮の香りが漂う中、港の周辺は活気に満ち、遣唐使の出航準備で慌ただしく動く人々の声が響き合っていた。


 博多津の中心には、木製の桟橋が海に突き出し、数隻の遣唐使船が碇を下ろして停泊している。これらの船は、唐の造船技術を取り入れた大型の木造船で、長さ約30メートル、幅10メートルほど。船体は漆で塗られ、風雨に耐えるよう頑丈に作られている。船の甲板には、帆を操るための索具や、航海に必要な食料・水を積んだ木箱が整然と並ぶ。船員たちは、唐への長い航海に備え、帆布の点検や舵の調整に余念がない。その槌音や怒号は、これから始まる決死の航海への緊張感を高めていた。


 桟橋の近くには、鴻臚館こうろかん(飛鳥・奈良・平安時代の外交施設)の建物が立ち並ぶ。鴻臚館は、瓦葺きの屋根を持つ堂々とした木造建築で、唐風の意匠が施されている。正面の門には、唐から贈られた扁額が掲げられ、異国情緒を漂わせる。館内では、大宰府の役人たちが遣唐使の出航手続きを進め、唐への献上品(絹織物、硫黄、琥珀など)や公式文書の準備に追われている。館の庭には、唐や新羅からの使節が休息するための簡素な離れがあり、色鮮やかな唐風の装飾が施された屏風が置かれている。


 港の周辺には、倉庫群が広がる。倉庫は土壁と茅葺き屋根でできており、交易品や船の補修資材が保管されている。倉庫の間を縫うように、細い道が港から内陸の大宰府へと続く。この道は「官道」と呼ばれ、牛車や馬に乗った役人たちが行き交う。道端には、交易で栄えた豪族の屋敷が点在し、木製の柵で囲まれた敷地には、唐風の瓦を使った屋根が見える。


 博多津には、さまざまな人々が集まっている。大宰府の役人たちは、遣唐使の指揮を執る高級官僚から、船の管理や物資の点検を行う下級役人まで、多様な階層で構成されている。彼らは、麻布の直垂ひたたれほう(衣冠束帯のときに着る上着)をまとい、木簡や筆を手に忙しく動き回る。遣唐使の団長である大使や副使は、絹の袍に烏帽子をかぶり、威厳ある姿で船の準備を監督している。


 船員たちは、粗末な麻の衣を着た屈強な男たちで、朝鮮半島や南西諸島出身者も含まれている。彼らは、船の積み込みや綱の扱いに慣れた手つきで作業を進め、時折、荒々しい笑い声や掛け声を上げながら仲間と連携する。船には、唐で学ぶ僧や学者も乗り込む。空海や最澄のような僧は、質素な袈裟をまとい、経典や筆記具を入れた行李を携えている。彼らの目は、未知の唐への期待と緊張で輝いている。


 港の周辺には、交易で生計を立てる商人や職人たちの姿もある。唐や新羅から来た商人は、色鮮やかな絹の衣や異国風の帽子を身に着け、博多津で手に入れた日本の特産品(真珠や金、刀剣など)を品定めしている。地元の職人たちは、船の補修用の木材を運んだり、船員のための干し魚や塩を売ったりしている。市場では、唐の陶器やガラス器、日本の漆器が並び、異国の言葉と日本語が交錯する喧騒が響く。


 女たちも港に姿を見せる。漁師の妻や商人の娘たちは、麻のもすそ(襞を畳んだロングスカート)をたくし上げ、魚籠を手に海産物を売りに来る。遣唐使の出航を見送る家族もおり、子を連れた母親が船の安全を祈りながら手を振る姿が見られる。港の片隅には、簡素な祠があり、地元の神(住吉神や宗像神)に航海の安全を祈る神官が幣帛を捧げている。


 博多湾の水は穏やかで、遠くには玄界灘の荒々しい波が見える。夏の博多津は、湿気を帯びた暖かい風が吹き、松や杉の木々が港の背後に広がる丘陵を覆う。空にはカモメが舞い、時折、魚を狙うトビが鋭い鳴き声を上げる。港の近くでは、漁師たちが小さな丸木舟で網を投げ、タイやサバを獲っている。海辺には、干された海藻や貝殻が散らばり、潮の満ち引きに合わせて小さなカニが動き回る。


 博多津の空気には、異国との交流による活気と、遠い唐への航海への不安が混在している。遣唐使の船が出航する前夜、港は静寂に包まれる。船員や僧たちは、星空の下で火を囲み、唐の地への思いを語り合う。遠くで聞こえる波の音と、船の軋む音が、長い旅の始まりを予感させる。


 博多津は、交易と外交の中心である一方、軍事的な緊張感も漂う場所だった。白村江の戦い(663年)の敗北後、日本は唐や新羅の侵攻を恐れ、博多湾周辺に防衛施設を築いていた。港の背後には、水城(みずき)と呼ばれる巨大な堤防が横たわり、敵の侵入を防ぐための堀が掘られている。水城の近くには、兵士たちが駐屯する簡素な詰所があり、矛や弓を持った衛士が巡回する姿が見られる。遣唐使の出航準備が進む中、こうした防衛体制が、博多津の戦略的重要性と、対外関係の複雑さを物語っている。



 804年(延暦23年)8月、博多の港は熱気に満ちていた。四隻の遣唐使船が東シナ海を渡る準備を整え、僧、官人、学問僧たちが次々と乗り込んでいた。


 空海(31歳)は、粗末な僧衣に身を包み、鋭い眼差しで水平線を見つめていた。彼の胸には、仏法の真髄を求める炎が燃え、未知の唐への旅に心を躍らせていた。私費の学問僧として20年の滞在を義務付けられていた空海は、どんな試練にも立ち向かう不屈の精神と、鋭い知性を併せ持つ人物だった。船の甲板に立つ彼の姿は、まるで嵐を予見するかのように静かで力強かった。その背中は、俗世の迷いを一切断ち切ったかのような清冽さを纏っている。


 第一船には、遣唐大使・藤原葛野麻呂ふじわら の かどのまろ(50歳)がいた。葛野麻呂は、落ち着いた物腰と老練な外交手腕を持つ貴族で、朝廷の信頼を一身に背負っていた。温和な笑顔の裏には、国家の威信を担う重圧が隠れていたが、彼は部下を励ます言葉を絶やさなかった。


 同じ船に、遣唐副使・石川道益いしかわ の みちます(40歳)が乗船していた。道益は実務に長けた真面目な性格で、船内の秩序を保つことに心血を注いでいた。彼の几帳面さは、使節団の結束を支える柱だった。


 そして、学問僧の資格で遣唐使にもぐりこんだ橘逸勢たちばな の はやなり(30歳)は、詩と書に優れた風流な若者で、空海と語り合う中で互いの志を認め合っていた。逸勢の明るく開放的な人柄は、船内の緊張を和らげる存在だった。時に甲板で詩を詠み、風に髪をなびかせる彼の姿は、まるで唐の文人さながらだった。だが、そのどこか危ういまでの感受性が、後に海に潜む魔を呼び寄せることになるとは、この時の彼はまだ知る由もなかった。


 一方、第二船には最澄(37歳)がいた。比叡山での長年の修行で知られる最澄は、穏やかで謙虚な人柄ながら、仏法への深い信仰心と使命感に突き動かされていた。国費の還学生として短期滞在を予定し、国家の期待を背負う彼は、静かに経典を手に船に乗り込んだ。弟子たちを導く師としての包容力を持つ最澄は、船内でも若い僧たちに法話を説き、希望を与えていた。



 遣唐使船団は、博多を出港し、東シナ海を渡る「南路」を進んだ。この南路は、7世紀後半に新羅との関係悪化により採用された航路で、朝鮮半島を迂回し、五島列島を経て直接唐を目指すものだった。南路には二つの主要な経路が存在した。一つは「大洋路」で、東シナ海を直線的に横断し、唐の福州や明州(現在の寧波)に到着するルート。もう一つは「南島路」で、吐火羅列島(トカラ列島)、奄美大島、阿児奈波(沖縄本島)などの島嶼を中継しながら進むルートだった。


 804年の遣唐使は、「大洋路」を選択した。『日本後紀』によると、船団は五島列島を通過後、東シナ海を直進し、福州・赤岸鎮に漂着している。南島路が選ばれなかった理由は、吐火羅列島や奄美、沖縄などの島嶼が、当時まだ日本にとって未開の地であり、補給や安全な停泊が困難だったためと考えられる。


 特に吐火羅列島は、火山活動が活発で、島民との交流も限定的だった。沖縄(阿児奈波)は、琉球王国の成立以前であり、日本朝廷の統治が及ばない地域だった。さらに、南島路は島々を中継する分、航海距離が長くなり、食料や水の補給が不安定になるリスクがあった。大洋路は、海流の速さと嵐の危険を伴うが、距離が短く、唐の先進的な港湾施設に早く到達できる利点があった。このため、804年の船団は、危険を承知で大洋路を選んだ。


 東シナ海の海流は、黒潮の影響で速く、時に予測不能だった。船は木造の平底船で、帆と櫂を頼りに進むが、風向きが変わればたちまち漂流の危機に瀕した。航海は約1か月半続き、第一船は暴風雨に翻弄されながら、10月初旬に福州・赤岸鎮に到着。そこから陸路で50日以上かけて長安に向かった。第二船は台州に到着し、最澄はそこから天台山へ向かった。航海の過酷さは、第三船と第四船が遭難した事実からも明らかだ。命を落とした者も少なくなく、船員たちは常に死と隣り合わせだった。荒れ狂う波濤の中、木造の船体は悲鳴のような軋みを上げ、夜の闇はすべてを飲み込もうとする深淵のようであった。



 航海の途中、第一船は東シナ海の果てしない波濤の中で、異様な出来事に遭遇した。ある夜、月明かりが海面を銀色に染める中、船上に半透明の幻影が現れた。それは古代インドの天竺から飛来した夢魔、スナーヤミラーとマイトリーイだった。


 マイトリーイは、元は婆羅門の比丘尼びくにであったが、スナーヤミラーの幾多の誘惑により屈服し解脱の教えから堕天して、浅ましい夢魔の式神として変異してしまった。そのこと以来、マイトリーイは新たな道を歩み始めた。スナーヤミラーと共に、彼女は人間の男女を誘惑し、堕落させる使者としてジャングルの深奥を彷徨い続けた。


 スナーヤミラーは、妖艶な女性の姿で現れ、時に男性や稚児の姿に変化しながら、船員たちの心を惑わした。マイトリーイは、元は仏教の女性修行者だったが、スナーヤミラーに堕落させられた夢魔で、彼女もまた魅惑的な姿で船員を誘った。二人の半透明な姿は、まるで海霧のように船を包み込み、甘美な囁きで心を掴んだ。その声は、潮騒に混じって脳裏に直接響き、抗いがたい眠気と情欲を呼び起こす。


 スナーヤミラーは、藤原葛野麻呂に近づき、彼の耳元で「海の底には竜宮城が待つ」と囁いた。葛野麻呂の目は虚ろになり、船の舷側に手を伸ばした。石川道益もまた、マイトリーイの誘惑に囚われ、海面がまるで極楽浄土の入口のように輝いて見えた。


 二人は、夢魔の魔力により、船から海へ飛び込もうとしたその瞬間、空海が立ち上がった。彼は手に数珠を握り、密教の真言を唱え始めた。


「オン・アビラウンケン・ソワカ」


 その声は、船全体に響き、夢魔の幻影を打ち砕いた。葛野麻呂と道益は我に返り、冷や汗を流しながら空海に礼を述べた。


 しかし、最も若い橘逸勢は、マイトリーイの誘惑に深く絡め取られていた。彼女は逸勢に幻想的な愛の囁きを浴せ、悦楽の極みを味あわせた。逸勢の頬は紅潮し、視線はどこか遠い悦楽の園を彷徨っている。逸勢は、夢うつつのまま船の舷側を越え、海へ身を投げようとした。


 その瞬間、空海は素早く逸勢の右足を掴み、力強く甲板に引き戻した。「逸勢よ、心を清めなさい。魔は仏の試練なり!」空海の声に、逸勢は目を覚まし、震えながら甲板に膝をついた。夢魔たちは、空海の法力に抗えず、夜の海に消えていった。去り際、マイトリーイが残した妖しくも哀しげな視線が、逸勢の心に深い爪痕を残した。



 一方、第二船に乗る最澄は、夢魔の襲撃を免れた。嵐は第二船をも襲ったが、最澄は船内で弟子たちに法華経を説き、仏の加護を祈り続けた。彼の穏やかな声は、船員たちの心を落ち着け、恐怖を和らげた。ある夜、嵐が最も激しく船を揺らした時、最澄は甲板に立ち、風に向かって静かに経を唱えた。「南無妙法蓮華経」、その声は、まるで海神を鎮めるかのように響いた。船員たちは、最澄の信仰心に支えられ、希望を取り戻した。


 804年秋、第二船は無事に台州に到着。最澄は、疲れ果てながらも、天台山での修行を夢見て船を降りた。彼の心には、仏法の真髄を日本に持ち帰る決意が宿っていた。夢魔に惑わされなかった最澄の航海は、彼の清らかな信仰心の証だった。だが、その静寂の裏で、空海たちの乗る第一船が潜り抜けた「魔の誘惑」が、これからの長安の夜をいかに変奏させていくのか。物語はまだ始まったばかりであった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

次の更新予定

2026年1月21日 06:00

「⚓長安変奏曲」空海と橘逸勢は804年(延暦23年)5月12日、第16次遣唐使の一員として難波の津を大唐帝国に向けて出航した。 ⚓フランク ✥ ロイド⚓ @betaas864

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ