第2話 竜人

 澱んだ意識が覚醒し、アンヘルはふと視線を上げた。いつからだろう。倒れ込んだアンヘルから数歩離れた場所に、三人の『人』がいた。男性が二人。若い娘が一人。娘は不安に満ちた両眼でアンヘルを見ていた。娘の両眼は澄んだ闇色だった。首筋から両肩にかけての線は細く、身を守るように組んだ両腕はしなやかだった。それらが強い印象を与える娘だった。それから、上方向に引き延ばしたように尖った両耳、みたこともない美しい縫製技術を駆使した衣服と背嚢(はいのう)、八つの指先が見えた。それら一切合切を超えて思ったことは、なんて美しい娘だろう、ということだった。


 男性二人は余計なことを言わず、倒れ込んだ小型肉食竜の近くに屈みこんだ。それから何も言わずに大型ナイフを竜の肉体に突き刺し、竜の肉体を解体し始めた。


 娘も何も言わなかったが、意を決したようにアンヘルに近づいた。その足音は柔らかく、落ち葉を踏む音は穏やかだった。


 娘は一瞬だけアンヘルの前腕に視線を落とした。血はすでに黒く濁り、裂けた肉の縁が不規則に開いている。骨の白さが、湿った空気の中で異様に目立っていた。娘は眉をわずかに寄せたが、声は上げなかった。


 娘は背嚢から小さな薬瓶を取り出し、中身を確かめるように軽く振った。瓶を開けると、薬瓶を傾けて薬液を布切れに浸した。薬液からは濃いニンニクの匂いがした。娘は薬液を浸した布切れを、アンヘルの前腕に押し当てた。


 右前腕に焼けつくような痛みが走った。皮膚の内側を刃でなぞられるような感覚に、アンヘルの全身が痙攣けいれんした。


 娘の手に迷いはなかった。布を裂き、血と薬草を包み込むようにして、きつく、しかし一定の力で巻き上げていく。


 アンヘルは、娘が布を締めるたびに内側で脈打つ感触を覚えた。


 娘の指は細かったが、力の入れ方は的確だった。結び目を作ると、最後に布の上からそっと押さえ、出血が収まっているかを確かめた。その間、娘は一度もアンヘルの顔を見なかった。


 処置が終わると、娘は短く息を吐いた。


 アンヘルは喉が渇き切っていた。精神的に疲れ切っていた。娘が水筒の口を上げ、ハンカチに水を含ませた。水袋が傾き、たぷん、という音がした。それから娘がアンヘルの口元をハンカチで濡らし、それをアンヘルの口元に近づけた。


 アンヘルはその水を夢中でなめとった。ほんの少しずつ、全身が澄んでいく感覚があった。どういう形で彼女に感謝をすればいいのか、見当もつかない。何も考えられないまま、アンヘルは夢中で濡れたハンカチを舐め続けた。


 娘はじっとアンヘルを見守っていた。


 アンヘルの張り詰めていた神経が一気に弛緩した。娘や男たちが何者かは分からない。しかし、生きていていいんだよ、と言われた気がした。アンヘルは記憶を背負っていた。自分の物語を背負っていた。その重みがアンヘルの眼のふちに溢れ、零れようとしていた。あわてて目を隠すようにしたが、嗚咽おえつを隠すことはできなかった。


 しばらくの間、娘はそれに気が付かないような振りをしていた。


 男たちが立ち上がった。

逆鱗げきりんを剥ぎ取った。帰ろう。」

 娘が首を横に振った。

「この人を助けないと。手伝って。」

 その言葉に、一瞬、男たちが躊躇ちゅうちょするように娘と視線を交えた。それからため息をつき、男の一人がアンヘルを背負いあげた。


 乱暴な担ぎ方だった。だが確かに人の体温があった。アンヘルの意識は、ここで再び途切れた。




 次にアンヘルが覚醒した時、アンヘルは寝台に横たわっていた。老人とあの娘がアンヘルを覗き込んでいた。老人が手振りを交えて、落ち着け、と言った。

「お前を助けたいのだ。わしらは竜人。ここは、」


 言葉の途中で、アンヘルは目を動かした。答えより先に周囲が気になった。周囲の光景は一変していた。アンヘルは家の中にいた。そこは外の森とは別の穏やかな静けさがあった。美しい彫刻を施された扉があり、背の高い棚が並ぶ壁があった。棚には書物が隙間なく収められている。革表紙のものがあり、布で包まれたものがあった。乾いた紙とインクの匂いがほのかに漂っていた。


 別の棚には、大小さまざまな薬瓶が整然と並んでいた。濁った色のガラス瓶や、光を通さない陶器の瓶がいくつもあった。


 視線を上げると、天井から梁にかけて、乾燥させた薬草が束ねられて吊られていた。葉、根、花、細い枝。空気の流れに合わせてわずかに揺れ、擦れ合うたびにほっとする匂いが流れる。穏やかで混然とした香りが落ちてくる。


 テーブルには湯気を立てる陶製のカップと、緑茶の香りがあった。青く、しかし鋭すぎず、喉の奥を静かに冷やす匂い。


 夢の中だろうか、とアンヘルは考え、ゆっくりと息を吸った。瞬間、両腕に激痛が走った。右前腕の奥で、鈍い熱が脈を打っている。左手の指が脈拍に合わせてうずいている。現実だった。


 リザ、と老人が声を発した。リザと呼ばれた娘はうなづき、背嚢から水袋と小さな器を取り出した。水が注がれ、そこに砕いた薬草と樹脂が加えられる。攪拌されるたび、鼻を刺すような苦味と、樹脂の甘さが混じった匂いが立ち上った。


 リザは布を浸し、それをアンヘルの前腕に当てた。冷たさの直後、深部まで染み込むような灼熱が走る。思わず身体が強張ったが、娘の手がすぐに肩に触れ、短く押さえた。


 老人は何事かを呟き、アンヘルの傷口に液体を注いだ。溜まっていた血と泥が、ゆっくりと洗い流されていく。液体が骨に触れるたび、硬いものを撫でられるような不快な感触があった。


 アンヘルは呼吸を整えようとしたが、喉がひくりと鳴るだけだった。


「骨を戻すぞ。」

 老人がそう言った。骨。次に来るものを、アンヘルは直感で悟った。


 娘がアンヘルの前腕を両側から支えた。老人がアンヘルの露出した骨端に指をかける。そうして老人は八本の指に力を込めた。


 アンヘルは絶叫しようとしてできなかった。声にならない声が喉に詰まった。湿った石を押し合わせるような感触があった。骨がずれる。戻る。世界が白く弾けた。体の深部で何かが正しい位置に収まった感覚が残った。


「暴れるな。」

 老人がアンヘルを叱りつけ、リザは淡々と絹の糸束を用意した。乳白色の糸は、ほのかに生き物の匂いがした。老人は絹糸を骨折部位に巻き付けていく。糸が重なり、支えとなっていく感触が、内側から伝わってくる。そうして、老人は骨に巻きつけた絹糸の上に熱い薬液を塗りたくった。


 アンヘルは呼吸することしかできなかった。


「縫合だ。」

 そう言って老人はアンヘルの皮膚を縫い合わせた。皮膚が引き寄せられる。針が通るたび、鈍い痛みが遅れてやってくる。裂けていた肉が、少しずつ元の形を取り戻していく。


 アンヘルは、ただ天井を見つめながら、息を繰り返した。


「固定するぞ。」

 その上から、木を削って作った添え木が当てられた。前腕を挟み込み、革紐と布で幾重にも固定される。


 リザが短く息を吐いた。その吐息に混じって、薬草と樹脂の匂いが、わずかに和らいだ。


「四週間、動くな。」

 老人がそう言って、アンヘルを見下ろしていた。




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