ユナイテッドストーリー2・カノン
海辺_雪(Watabe_Yuki)
第一部 アンヘル
第1話 死闘
その村の朝は、湿った甘さを含んだ風とともに始まる。そこには夜露を吸った土の匂いと、腐りかけた果実の匂いが混じり合っていた。
アンヘルは心の中で母を思い描いた。母に抱かれていた頃、空気はもっと乾いていた。肌にまとわりつかず、肺の奥まで澄んでいた。そう信じていた。
———悪魔憑きだ。
ときおり、頭の奥を金属で叩かれるような痛みがある。脈拍が不規則に跳ね、こめかみの内側で熱が膨らむ。記憶が錯乱し、現実に重なるように幻が差し込む。
幼いころ、村を訪れた医者がいた。その医者は子供だったアンヘルに向き合い、この子は悪魔憑きだ、と言った。その言葉を合図にしたように、大人たちがアンヘルの小さな体を羽交い絞めにした。抵抗したが、大人たちの力には勝てなかった。焼けた鉄が皮膚に触れ、焦げた肉の匂いが鼻に残った。そのようにして、アンヘルは一生消えない刺青を額に刻まれた。刺青の意味は単純だった。説明を必要としない、一目で分かる記号だった。
アンヘル、と呼ぶ母の眼差しを想った。哀し気で、でも決して揺るがない眼差し。自分が刺青を入れられたとき、母だけが自分の味方でいてくれた。アンヘルのために勇気を奮い、アンヘルを
———あなたは大丈夫よ( be all right)。
母がそう叫んだ。母を周囲の大人たちが抑えていた。布擦れの音、荒い呼吸、誰かの舌打ち。その喧騒の中で、母の声だけがはっきりと残った。
その声を聞いたから、アンヘルは泣かなかった。喉の奥が焼けるように痛んだが、声は出さなかった。気高くいよう、と決めた。母のための兵隊でいよう、と決めた。
その日以来、誰もアンヘルに声をかけなくなった。誰もアンヘルと視線を交えようとしなくなった。誰もがアンヘルを無視していた。養蚕小屋の主人だけが、用がある時だけアンヘルを呼んだ。その主人は、アンヘルをペロ(犬)と呼んだ。
以来、アンヘルは養蚕小屋の裏庭に住み着いた。朝、アンヘルは黙って村はずれの森へと向かう。黙って木の枝葉を束にして持ち帰る。それがアンヘルの仕事になった。仕事は遅いが、文句は言われない。夕方になるとアンヘルは小屋に戻り、木の皿を主人に差し出す。そうするとカイコ肉の入った粥をもらうことができた。味の淡い粥だった。噛むと砂のような感触が舌に残った。
そうして夜になると、養蚕小屋の裏庭でアンヘルは眠りについた。天井も壁もない裏庭がアンヘルの寝床だった。地面の冷えが背中から這い上がり、風が襤褸を叩く。凍える様な寒さの夜には母のことを思い描いた。母は、あなたは正常よ、と言った。何度も。叱るときも、眠る前も。いなくなる直前も。その言葉だけは決して変わらなかった。
そしてある日の夜明け前、村の家畜がすべて死んだ、という声が響いた。養蚕小屋で主人以外の人間の声を聞いたのは初めてだった。
「どの家畜もやられた。腹を裂かれている。」
村の男が甲高い声でそう叫んだ。養蚕小屋の主人が、落ち着け、と言った。
「誰がやったんだ。」
「人間じゃない。竜だ。小型竜の足跡が残っていたんだ。」
「小型竜。小型竜か。」
養蚕小屋の主人は、力なく男の声を反復した。
軽く頭痛があった。アンヘルは痛みに耐え、いつものように村はずれの森へと向かった。
そしてその日の昼、村の教会が烈しく鐘を鳴らした。そんなことは初めてだった。
鐘の音が、烈しく脳裡に響いた。胸が強く脈打ち、体熱が上がり、汗が噴き出した。視界が揺れ、過去が割れたガラスのように差し込んだ。
———大丈夫よ。
母の声がした。
———悪魔憑きだ。
医者の声がした。
おおお、と口から声が零れた。アンヘルは鐘の音から逃れるために、森の深部へと踏み込んだ。
アンヘルを呼び止める者は誰もいなかった。
森は、村の外れとはまるで別の顔をしていた。陽は高いはずなのに、樹冠が重なり合い、地面まで光が落ちてこない。湿った葉が何層にも積もり、足を踏み出すたびに鈍い音を立てて沈む。腐葉土の匂いが濃く、甘さと酸味が混じり合って鼻腔にまとわりついた。蔓植物が足首に絡み、無意識に払うと、指先にぬめりが残った。
遠くで鳥が鳴いた。どの方向かは分からない。聞いたこともない鳥の鳴き声だった。自分の呼吸音と心臓の鼓動だけが大きく聞こえた。汗が背中を伝い、襤褸の内側で冷えた。肌に触れる空気が生暖かった。吸い込むたびに肺の奥が重くなるような気がした。
道らしいものは、いつの間にか消えていた。踏み固められた跡も、目印になる木もない。倒木を越えたのか、迂回したのか、それすら思い出せない。気づけば、同じ景色を何度も見ているような気がした。木の幹に刻まれた苔の形が、どれも同じに見えた。
そのときだった。風が一瞬、向きを変えた。
湿った森の匂いの中に、異物のような匂いが混じっている。汗の匂いだ。人のものだ。それも、はっきりと覚えのある匂い。森の中に、かすかにイサベルという娘の汗の匂いが混じっていた。それは間違いなくイサベルの匂いだった。
アンヘルはその娘を一度だけ見たことがあった。それだけでアンヘルはその娘を美しいと思った。娘は青年と一緒に歩いていた。青年がイサベル、と声を発したから、アンヘルはそれが娘の名だと思った。イサベルは青年としっかり手を繋ぎ、気取らない足取りで歩いていた。薄い青色のローブ、橙色の腰帯、そこから聖処女の白い足が伸びている。乾いて、気も生えていない。イサベルはサンダルを履いていた。そのサンダルまでも天使の履物のように見えた。
アンヘルが見とれていると、イサベルはきゅっと下顎を引いて生真面目な顔で青年を見た。青年がアンヘルを
そのイサベルの匂いが、森の中に混じっている。アンヘルは夢中でその匂いを嗅いだ。その匂いに導かれるようにして歩いた。鉄錆に似た血の臭いがした。生臭い排せつ物の臭いがした。
「イサベル。」
アンヘルは叫んだ。視界が開けた。アンヘルの眼前に、イサベルの遺体があった。
イサベルの肉体はあちこちに散乱していた。腕の白い骨があり、そこに薄く乾きかけた血がこびりついていた。皮膚の切れ端が葉に引っかかり、風に揺れていた。イサベルの上半身があり、露出した臓器があった。血糊が地面に広がり、腐葉土と混じり合っていた。
アンヘルの足から力が失われた。いつの間にかアンヘルは座り込んでいた。土の冷たさが襤褸越しに伝わる。
瞬間。地面にうねる振動があった。太い尾が空気を裂く音がした。尾をしならせる巨体があった。巨体は一瞬で間を詰め、アンヘルの目前に迫っていた。
小型竜の鋭い歯列がアンヘルの突き出した左手を噛み砕いた。指がばらばらと空中に飛んだ。血が噴き出していた。血の温かさが肘まで伝わった。
頭痛。突然、脳裡に響いた激痛にアンヘルは叫んだ。次々に記憶の幻影が視界に現れた。悪魔憑きと呼んだ医者。拒絶の視線を向けた青年。イサベル。イサベルの散らばった遺体。
———悪魔憑き。
その言葉が、耳の内側から鳴った。外界の音は遠のき、幻聴が聴覚を塞いでいた。
竜の
———あなたは大丈夫よ。
母の声がした。だからアンヘルは泣かなかった。喉の奥が焼けるように痛んだ。それでも声は出さなかった。気高くいよう、と決めた。母のための兵隊でいよう、と決めた。
———大丈夫なのよ。
「はい。」
アンヘルの両腕が竜の胴体を捕えた。
「母さん。」
瞬間。アンヘルの両腕が、強く竜の胴体を締め上げた。
竜が咆哮を上げた。低く、腹の底を震わせる音が空気を裂いた。竜は身をよじりアンヘルを振りほどこうとした。竜が再び咆哮を上げた。竜は空中にアンヘルの胴体を振り上げて地面に叩きつけた。それでもアンヘルの両腕が竜の胴体を締め上げていた。竜の肋骨が軋む音を立て始めていた。竜の肋骨が砕けようとしていた。竜は何度も肉体をよじらせ、アンヘルの肉体を空中へと舞い上げ、そして地面へと叩きつけた。アンヘルの両腕は緩まなかった。アンヘルの両腕が竜の肺と器官を圧し潰そうとしていた。
瞬間。竜が絶叫し、そして空気を裂く衝撃音を発した。
なにが起こったのか分からなかった。アンヘルの意識は一瞬で途絶していた。
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