第3話 治癒

四週間のあいだ、アンヘルの右手は木と布と革で固められていた。まったく動かすことができなかった。左手は小指と薬指がなくなっていた。指先の感覚は失われているはずなのに、時おり、失った左手の指先がひりつくように疼いた。頭痛があり、幻覚があった。汗が止まらなかった。


アンヘルは眠ることができなかった。脈に合わせて、こめかみの奥が内側から叩かれる。目を閉じると、森の影や白い骨、割れた視界が浮かび上がった。幻覚だった。分かっていても、追い払うことはできなかった。


食事は、いつもリザが運んできた。

薄い粥だった。湯気は立つが、匂いは弱い。口に含むと、ぬるく、ほとんど味がしなかった。喉を通る感触だけが、食べている証だった。


排泄は、オムツにするように命じられた。

その後始末も、リザが淡々と行った。布が替えられ、身体が拭かれる。恥ずかしさはあったが、何も言われないことが重かった。リザは視線を逸らさず、急がず、ただ必要なことをした。


あるとき、リザはアンヘルをじっと見ていた。リザの表情はまったく動かなかった。


「竜は人間の性質を知っている。人間は、親しい人の遺体を放置できないでしょう。あのかわいそうな女の子はおとりだった。竜は人間の遺体を食べずに、人間をおびき寄せる知恵があるの。貴方は、竜による人間狩りに巻き込まれた。」


リザはさらに言葉を重ねた。


「貴方は竜と相討ちになっていた。多分、竜の咆撃ブレスで気を失ったのだと思う。それを最後に、竜も行動不能に陥っていた。信じられないけれど……貴方は、素手で竜殺しを成し遂げた。」


リザはそこまで言って、一瞬、呼吸を整えた。そうして、声を低くした。


「でももう、二度としてはだめだよ。竜は逆鱗げきりんを剥ぎ取るか、破壊しない限り、必ず再生する。彼らは不死身なのよ。」


リザはそう言って、アンヘルと視線を交えた。

アンヘルは何か気の利いたことを言おうとしたが、できなかった。


「どうして、君たちは、僕にこんなによくしてくれるの。」


アンヘルに言えたのは、そんな質問だけだった。

リザは微笑もうとして、しかしすぐに無表情に戻り、首を横に振った。


「わからない。でも、放ってはおけない、そう思ったの。」


それが、リザの言ったことだった。


どうやって四週間を持ちこたえたのか、アンヘル自身にも分からない。アンヘルは真っ白な木綿のローブに着替えさせられた。四週間が過ぎたころ、リザは固形食を用意してくれた。家禽の肉を細く裂いたものだった。噛むと、歯に感触が残った。小さな音がした。それだけで、生きている実感があった。


竜人の子供たちが、興味本位で覗きにくるようになった。尖った耳が扉の影から覗き、囁き声がした。


リザは、部屋の中なら自由に歩いていい、と言った。アンヘルはようやく、周囲の状況を把握することができた。リザの家は、丘陵の谷あいに建てられた石積みの家屋だった。陽の光をたっぷりと受けるガラス窓があり、小ぶりの格子トレリス窓にはガラスがはめ込まれ、微かに艶を帯びていた。


窓辺には、小さな花壇があった。石で囲われた枠の中で、いくつかの香草が優しい香りを放っている。ローズマリー、レモンバーム。テンジクアオイには赤い花が咲いていた。それが、竜人たちの文化であるようだった。


リザは子供たちを家に招き入れ、おとぎ話をしていた。


「十万年前に、星降る夜があったのよ。信じられないけれど、翼を備えた機械が星たちの世界に飛び立って、小さな星を捕まえた。機械は星を捕まえ、流れ星になって人間世界に帰還した。沈黙の海、記憶のない海、黒い海や香料の海、夢みる海や白の果て。」


リザは子供たちに絵本の挿絵を見せた。


「幾夜も、星降る夜が続いたの。」


リザがそう言うと、子供の一人が「とても綺麗」と呟いた。


それから二カ月のあいだ、食べ物はカイコの燻製肉になった。噛むと、最初に油の甘さが滲み、遅れてナッツに似た香ばしさが広がる。歯に残る滋養の重さが、体の奥へ沈んでいくのが分かった。食後には、胸の内側がゆっくりと温まった。


季節は立春に近づいていた。朝の空気はまだ冷たいが、陽が当たる場所では土がわずかに匂い始めている。里の端では、雪解け水が細い音を立てて流れていた。


頭痛。幻聴。幻覚。

肉体が癒えるにつれ、アンヘルは再び心の問題と向き合わねばならなくなった。痛みは鋭くはなかったが、確実にそこにあった。何もしていないときほど、耳の奥で誰かの声が囁き、視界の隅に影が揺れた。


アンヘルの心の問題について、リザは決して質問しなかった。額の刺青にも触れなかった。リザは頑強な無口さで、アンヘルを見守っていた。


そのころから、リザは外出を許可してくれた。


アンヘルは、竜人の里のさまざまな場所をさまよった。

大昔の時代の遺跡からできた混凝土の岩々は、苔と蔓に覆われ、手で触れると冷たかった。高く伸びすぎないように手入れされたブナやナラは、葉を揺らすたびに乾いた音を立てた。


枝葉を山積みにした大型カイコの養蚕施設からは、甘く青い匂いが流れてきた。葉を食む音が、かすかに続いている。里の家々には、オーク材の香りが穏やかに籠っていた。


家屋は三十棟ほどあり、どれも森に呑まれかけていた。屋根には苔が生え、壁の隙間から若い蔓が伸びている。その中を歩くと、土の柔らかさが靴底に伝わった。


そのような場所で、アンヘルは竜人の青年に出会った。


青年は若い竜人のようだった。美しい眼鏡をかけ、少し野暮ったい服を着ていた。リネンの古いシャツ、種や紐を詰め込んだ襤褸ぼろのベスト、濃緑色のジャケットには木くずが付着していた。


アンヘルは言った。

「こんにちは。僕はアンヘルというんだ。」


青年はうなづき、

「こんにちは。僕はエドワードだ。」

と応えてくれた。


風が、二人のあいだを通り抜けた。枝が擦れる音がして、遠くで何かが落ちた。


思い切って、アンヘルは声を発した。

「ねえ、エドワード。こんな話を聞きたくないかな。たとえば……」


「どんな話だろう。」


「いや、なんでもないんだ。」


「何か話したいなら、話していいんだよ。」


アンヘルは一度、地面に視線を落とした。土と落ち葉の境目が、やけにくっきり見えた。

それから、掠れた声を出した。


「僕は、ここに来てからいろいろな人から親切にしてもらった。こんなに優しくされたのは初めてだ。だから、何かお礼をしたいのだけど、その方法が分からないんだ。」


風が流れた。

エドワードが目をしばたいた。


「それは、難しい問題だろうか。ここのみんなは、君に感謝している。何しろ、竜を倒してくれたわけだから。竜殺しのアンヘル。君は、ちょっとした有名人なんだ。」


「僕は、役に立ったのか。」


「もちろん。」


「人の役に立てたのは、初めてだ。」


「そうなんだね。」


アンヘルの胸の内で、何かが静かにほどけた。冷たい空気を吸い込んでも、痛みはなかった。


「ありがとう。話を聞いてくれて。」


「また、いつでも。」


エドワードは、優しく微笑んでくれた。

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