第3話 頑張り次第という名の、見えない階段
面接室の椅子は、座ると「プシュッ」と情けない音がした。
かつて所長だった僕の尻の下で、空気が無意味に死んでいった。
「うちは基本給が20万で、あとは頑張り次第で月50万以上も可能ですよ」
面接官が、歯に青のりでも付いているような、無防備な笑顔で言う。
『頑張り次第』。
その言葉を聞くたびに、僕は「宇宙の果てまでケンケンで行けたら100億円」と言われているような気分になる。
頑張り。努力。根性。
そんな実体のないものをガソリンにして、40歳の僕はまたストレスという名の黒煙を上げるのだろうか。
「あの、最低年収を教えてください。頑張らない場合の、いわゆる『無の状態』の僕の価値を」
僕が言うと、面接官の笑顔が少しだけ「賞味期限切れの豆腐」のような質感に変わった。
年収400万前後で、白髪の部長にペコペコと頭を下げ、取締役のヘラヘラした冗談に「最高ですね」と薄い拍手を送る。
そんなことに人生の残り時間を使うのは、高級なクロコダイルの革で「ただの巾着袋」を作るような、贅沢な間違いだ。
「……君、プライド高いね」
面接官が吐き捨てるように言った。
プライド。
僕は自分の胸を、レントゲンを撮るような目で見つめた。
全捨てしたつもりだったが、まだ奥の方に、三割くらいの「何か」がこびりついている。
それは、捨て忘れた生ゴミのような、あるいは、どうしても剥がれないシールのような、厄介な矜持だ。
「プライドは、昨日の夜にスーパーの袋に入れて、集積所に置いてきました。今ここにあるのは、プライドの『残り香』と、あと、猛烈にナスビを食べたいという衝動だけです」
僕は、かつての部長時代に培った「一番説得力のある顔」で、嘘をついた。
実際は、プライドの三割を、奥歯の裏側にしっかり隠し持っている。
「500万。それが、僕がこの部屋の空気を吸い続けるための、最低限のサブスクリプション料金です」
面接官の鼻の横にある小さなホクロが、微かに震えた。
年収500万と書かれた求人の、その向こう側に透けて見える「嘘の景色」。
僕は立ち上がり、履歴書を、まるで「手品で消えるはずだったトランプ」のように、雑に机に置いた。
「答えは、頑張り次第……ではなく、今ここで、数字で出してください」
僕は自分の指を、1本、2本とゆっくり折っていった。
3本目で止める。
残りの2本は、かつての取締役の耳のシミを指さすために、取っておくことにした。
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