手の思考、手の記憶

横井 志麻

今日、手と話してみた。

 私の手は職人気質だ。そのことに気づいたのは学童の頃だった。私自身はどちらかといえばずぼらで大雑把な質であるから、手が私に訴えかける日々の些事、たとえば「この布のつるつるとした感触は善である」とか「今、同じプリントを2枚取ったぞ」とか「この机のささくれを削りたい(当時は木の机だったのだ)」とかは大概にわずらわしく、私にはなるべく耳を貸さないようにする習慣が育っていった。工作の授業でもない限り、手の仕事は鉛筆を持って文字を書き、本を持ってページをめくることだと、私は何度も手に言ってきかせた。職人気質らしく頑固者な手は気にする風もなかったけれども。私が気にせずとも、手は藁半紙の角をきっちりと揃えてたたみ、均一に整った袋折の冊子を作った。私がよそ見をしていても、惚れ惚れするほど美しく鉛筆を削った。プリントを20枚ずつ取って、素早く100枚の束を積み、あるいは三つ折りにして封筒に収めた。手は私の思惑に構わず、与えられた役割をきっちりと果たすことに喜びを感じているように思われた。


 そんな手との関係が、大きく変化したのは仕事や育児で他人との関わりが急激に増えた頃だった。私の手は、人命に関わるような違和感を見逃さなかった。質感、温度、硬さ等、私が認識できないときでも、手は大きく警告を発した。そして、その警告のほとんどは決して気のせいではなく、多くの事故を防ぎ、被害を軽くした。私は否応なしに手の発する警告に耳を傾けざるを得なかった。多くの人にふれ、手の意見に耳を傾ける必要があった。私の仕事や成果は、周囲から評価されたが、私の内面はいくらか複雑だった。なぜなら、それは私でなく手のおこなった成果物であったから。


 仕事を離れ、育児も後半戦に入った今、私と手の関係は非常にのんびりとしたものである。お互いの干渉は最小限になり、日々、それぞれにやりたいことに注力して楽しむだけの余裕がある。私がクロシェを再開したいといえば、手はそれにつきあって、私が想像しなかった場所で糸を繰り、糸を押さえる。手が動作を理解してしまえば、むしろ私がよそ見をしている時の方がよほど編み目は美しく整っていて、それはいくらか悔しいことではあるけれど、よそ見の合間で本を読むことができるのならば、それはまぁ私にとっても悪い話ではない。「任せておけばいいさ」と手は言うし、私は新しい編み図を考えて手に投げかけるのも楽しい。お互いの声を聞き、お互いの意思を尊重しあうことができていると感じる毎日であるから、おそらく、手と私の関係は今が一番、穏やかで充実しているのだろう。


 手が「第二の脳」というなら、私の第二の脳は随分と頭でっかちで独立心が強く、頑固で融通の利かない職人気質を宿している。私自身とのギャップが大きすぎて、ずっと戸惑ってきたわけだけれど、穏やかな関係を手に入れたことで、新しい疑問が生まれた。

 私以外の人は、御自身の手とどんな関係を築いているのだろうか。自分の意見と、手の意見との相違に悩むことはないのだろうか。けれど、そんな話はさっぱり耳にしないので、おそらくは相思相愛な関係の人が多いのだろうなと考えるとき、私の心はちりりと羨ましさをおぼえたりもするのである。


 手はそんなことに構わず、この文字を打つスマホの左端がいくらか汚れて滑りが悪いと愚痴っているところではあるのだけれど。

(終)

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

手の思考、手の記憶 横井 志麻 @YOKOI-Shima

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

参加中のコンテスト・自主企画