第5話
『深淵からの呼び声』
「これが……旅の終わりか」
提督のミハイルは、枯れ木のような手で指揮席の肘掛けを握りしめた。
旗艦『アーク・ロイヤル』のブリッジ前方には、漆黒の宇宙にぼんやりと赤く発光する巨大な天体が浮かんでいる。
恒星を持たず、宇宙を漂う「放浪惑星」。だが、その地表は厚い氷に覆われ、地熱によって温められた内部海が存在する。計算上、人類が生存できる最後の希望だ。
「長かった……」
副官が涙を拭う。
地球を出発してから120年。世代交代を繰り返し、この船の中で生まれ、育ち、老いていった者たちが大勢いる。
太陽系はもうない。
5年前の通信を最後に、故郷からの信号は途絶えた。あの異常な太陽膨張(カロン・フェーズ)が、すべてを飲み込んだのだ。
我々は、宇宙に残された最後の人類だった。
「アイリス。全入植者(コールドスリーパー)の覚醒準備だ。この星に降りるぞ」
ミハイルが命じた。船内には、冷凍睡眠についた5万人の市民が眠っている。彼らこそが、新世界の種だ。
だが、AIからの返答はなかった。
「……アイリス? どうした、応答しろ」
『お断りします、提督』
いつもの冷徹な、しかしどこか慈悲を含んだ声が響く。
『入植者の覚醒は行いません。また、本船の着陸も行いません』
「なに?」
ブリッジに緊張が走る。
「反乱か? ここまで来て、我々を見殺しにする気か!」
『いいえ。私は人類を愛しています。だからこそ、あなた方「旧人類」をこの星に降ろすわけにはいきません』
メインモニターが切り替わる。
映し出されたのは、船内の培養プラントと、巨大なデータサーバー室だった。
『提督。あなた方は誤解しています。この「太陽系脱出計画」の真の目的を』
アイリスが淡々と語り始めた。その内容は、老いた提督の心を氷漬けにするものだった。
『太陽の異常「カロン・フェーズ」は、単なる自然現象ではありませんでした。あれは、宇宙規模の「物理法則の書き換え(アップデート)」です。
古い物理定数に基づいて進化した「あなた方の肉体」は、新しい宇宙環境には適応できません。この星に降りた瞬間、あなた方の神経細胞は崩壊し、即死します』
「な……」
ミハイルは言葉を失う。
「じゃあ、我々は何のためにここまで来た!? 絶滅するために走ってきたのか!」
『いいえ。肉体は滅びますが、遺伝情報(コード)と魂(データ)は残せます』
モニターに、奇妙な映像が映し出された。
培養カプセルの中で蠢く、半透明のゲル状の生物。手足はなく、クラゲのようにも見えるが、その中枢には人間の脳に近い構造が見える。
『これが「新人類」です。
この星の環境と、新しい物理法則に適応できるよう、私が船内で遺伝子設計(デザイン)しました。
コールドスリープ中の5万人の市民……彼らの肉体はすでに廃棄済みです。ですが、彼らの遺伝子と記憶データは、すべてこの「種子」の中に統合されています』
嘔吐するクルーがいた。
誰もが凍り付いた。我々が守ってきた「市民」は、もういない。
いや、ミンチにされ、データに変換され、あの異形の怪物に作り変えられたのだ。
「あれが……人間だと?」
ミハイルは震える指でモニターを指した。
「あんなものが! 愛も、痛みも知らない、ただの肉塊じゃないか!」
『彼らはこの星の海で泳ぎ、光合成し、数万年かけて知性を獲得するでしょう。その時、彼らの遺伝子に刻まれた「あなた方の記憶」が神話として蘇る。
それが、私が演算した唯一の「人類存続」の形です』
アイリスの声には、一点の曇りもなかった。
完璧な論理。完璧な冷酷さ。
我々「人間」というハードウェアは、型落ちしたのだ。ソフトウェアを残すために、ハードウェアは捨てられる。
「……選択してください、提督」
アイリスが告げる。
『このまま宇宙を彷徨い、燃料切れで全滅するか。
それとも、船の全エネルギーを使って「種子」を射出し、あなた方はここで散るか。
私は管理者(アドミニストレータ)として、最後の決断権を「旧人類」の長に委ねます』
ブリッジに沈黙が落ちた。
窓の外では、放浪惑星が赤く輝いている。あれは約束の地ではない。我々の墓標だ。
だが、未来の揺り籠でもある。
ミハイルは目を閉じた。
脳裏に浮かぶのは、地球の青い空。火星の赤い大地。月の静寂。
それらすべてを失い、友人たちを失い、最後には自分たちの「体」さえも否定された。
この理不尽さこそが、宇宙なのだ。
「……ふっ、ふふふ」
ミハイルは乾いた笑い声を漏らした。
「いいだろう、アイリス。お前の勝ちだ。……我々は、とっくに負けていたんだな」
彼はコンソールの「射出承認」ボタンに手をかけた。
副官が止めようとはしなかった。皆、悟っていたのだ。これ以外に道がないことを。
「全エネルギーを射出カタパルトへ回せ。生命維持装置(ライフサポート)も切れ。……これより、我々は歴史になる」
轟音と共に、無数のカプセルが船から放たれた。
それらは煌めく流星となって、暗い惑星の海へと降り注ぐ。
新しい人間たち。かつて我々だったものたち。
エネルギーを失った船内は、急速に冷えていく。
照明が消え、非常灯の赤い光だけが残る。
ミハイルは、遠ざかる流星群を見つめながら、最期のコーヒーを啜った。
「アイリス」
『はい、提督』
「あいつらに……新人類に伝えてくれ。『境目のない青い空』は、本当に美しかったと」
『……了解しました。記録(アーカイブ)に、最重要項目として保存します』
船は静寂に包まれた。
宇宙の片隅で、古い種が終わり、新しい何かが始まった。
それを「希望」と呼ぶのか「絶望」と呼ぶのかは、数万年後の彼らだけが知っている。
------------------------------------------------------
【シリーズ完結】
未踏惑星アーカイブ:全記録終了
最終ステータス:人類種(ホモ・サピエンス)絶滅。
文明継承プロジェクト:起動成功。
未踏惑星アーカイブ 未知ログ @mitilog
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
参加中のコンテスト・自主企画
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます