駿河の踊子

早乙女姫織

第1話 出会い

 京子は、友人との会話にも恋の噂にも心が動かず、いつも本の中にいた。現実世界は京子が思っているより品がない。友達という存在も、愛という概念も冷めた目で見ていた。だからこそ、素敵な話を求めた。その中でも特に『伊豆の踊子』の世界に惹かれていた。孤独な青年が旅の途中で出会う踊子。その儚さと、触れそうで触れられない距離感。彼女は、主人公の性格の歪みと自身の厭世観を重ねていた。


 主人公と同い年になった京子は、一人旅を反対する親を押し切って、旧天城トンネルへ向かった。東海道本線を乗り継いで、移動だけで4時間近く経っていた。スマホで道を確認しながら歩き続けた。道中、伊豆の踊子の冒頭が書かれた石碑を見つけた。川端康成の顔が彫られた石碑をまじまじと見つめると、あとちょっと、そう自分を励まし歩き続けた。トンネルが見えてきた。スマホのナビはもういらない。不在着信が止まらなかったので、電源を落とした。

 

 私の決めること、考えることをなぜ全て否定するのか。やや苛立っていたが、トンネルに近づくにつれてそんな思いも吹っ飛んだ。足の裏はじんじんと疲れを訴えていたが、気にならないほど興奮していた。杉林を抜け、石造りのトンネルの前に立つと、空気がひんやりと肌を撫でた。トンネルの上には2本の大きな木が、がおーっと、こちらを威嚇するかのように、トンネルの手となっていた。恐怖心を感じながらも、京子はトンネルに入っていった。


 トンネルは薄暗く、まるで時間が止まっているようだった。天井から水滴が垂れてくる。半袖にジーパンというシンプルな格好には涼しすぎた。何か羽織るものを持ってくればよかった。トンネルまで歩いた時に搔いた汗が体温を奪っていく。それでも、進むことはやめられなかった。


「道がつづら折りになって、いよいよ天城峠に近づいたと思う頃…」


彼女は無意識に、川端康成の言葉をなぞっていた。小さな声だがよく響いた。足音が石壁に吸い込まれていく。トンネルの向こうまでゆっくり歩こうとした。その時、キーンと耳鳴りが始まった。え、何、怖い、痛い。トンネルから出たい一心で向こうまで走った。トンネルを抜けた先に、城下町が広がっていた。

 

 今、私はトンネルから少し進んだ崖の上にいる。そこから見下ろせたのは、瓦屋根が連なる町並み、軒先に吊るされた赤い提灯、草履を履いた人々が行き交う石畳の道。空気が違う。匂いも、音も、色も。まるで、時代劇のセットの中に迷い込んだようだった。けれど、これは夢じゃない。足の裏の痛みも、汗が冷えて肌に貼りつく感覚も、すべてが現実だった。


「……どういうこと?」


 スマホを取り出そうとしたが、ポケットには何も入っていなかった。諦めて戻ってきたが、そこにトンネルはなく、ただの壁がたたずんでいるだけだった。石でできた、苔むした壁。さっきまで通ってきたはずの穴は、完全に塞がれていた。触れてみると、冷たさが手から這い上がってくる。夢じゃない。幻でもない。動揺が、胸の奥からじわじわと広がっていく。戻れない。私は、ここに閉じ込められたのか。それとも、私の頭がおかしくなったのか。壁に手をついたまま、私は深く息を吐いた。鼓動が早まっていた。冷静になろうとしても、思考がまとまらない。まるで、物語の中に閉じ込められたような感覚だった。戻れないのなら進むしかない。ため息が出る。    


 私は山道を下り始めた。杉の葉が風に揺れ、鳥の声が遠くで響いていた。道は細く、苔が生えて滑りやすかった。けれど、足元ばかり見ていると、心まで閉じてしまいそうで、私は意識的に顔を上げて歩いた。空は高く、雲は薄く、風は静かだった。しばらく歩いた頃、斜面の向こうから、誰かの鼻歌が聞こえてきた。私は足を止めた。歌声ではない。口笛でもない。何かを楽しんでいる音だった。できるだけ音を立てないように声の発生源に近づく。木々の隙間から見えたのは、女の子がしゃがんで何か作業をしている様子だった。


「すみません、あの……」


声をかけると、藪の向こうから娘が顔を出した。


「……誰?」


鋭く、低く、短い言葉だった。年の頃は私の少し下くらい。頭に手ぬぐいを巻き、腰には竹籠を下げていた。籠の中には、蕨やこごみがきれいに並べられていた。彼女は私をじっと見つめていた。目は細く、疑いを含んでいた。私は何も言えず、ただ立ち尽くしていた。


「この山に、よそ者が入るのは珍しいの。」


娘はそう言って、少しだけ身を引いた。私は慌てて言葉を探した。


「ごめんなさい。道に迷って……町に行きたいだけなんです。」


娘はしばらく私を見つめたあと、竹籠を持ち直した。


「ついてきて。町まで案内する。でも、変なことをしたらすぐに帰ってもらうから。」


その言葉は冷たかったけれど、どこか優しさも含んでいた。私は黙って頷き、彼女の後ろを歩き始めた。町はすぐそこだった。瓦屋根が連なり、軒先には風鈴が揺れていた。石畳の道を歩く人々は、着物姿だった。けれど、誰も私を不思議がる様子はなかった。娘の家は町の端にあった。町の端にある路地は、表通りの賑わいから少し外れていた。石畳は細く、両脇の家々は低く、軒先には干し柿や山野草の鉢が並んでいた。娘はその路地の奥にある一軒家の前で立ち止まった。


「ここ。うち」


木戸を押すと、軋む音がした。家は小さく、古びていたが、どこか丁寧に手入れされている気配があった。軒下には金属の細工道具が並んでいた。錺職人の家だと、すぐにわかった。


「オジが仕事してるから、静かにしてて。」


娘はそう言って、靴を脱ぎ、そっと中へ入った。私はその後に続いた。畳の匂いがふわりと漂い、奥の作業場からは金属を打つ音が微かに聞こえていた。


「オジって……お父さん?」


娘は首を横に振った。


「違う。私を拾っただけ。名前もないから、勝手にオジって呼んでる。」


その言葉に、私は何も言えなかった。娘は、竹籠を台所に置き、山菜を水に浸した。手際は良かったが、どこか無言の緊張が漂っていた。


「なんで、あんたみたいな人があの山にいたの?」


娘の声は、冷たくはなかった。でも、警戒心がにじんでいた。私は答えに詰まりながらも、正直に言った。


「……トンネルを抜けたらあそこにいたの。現実が、ちょっと苦しくて。私もよく分からないの。」


娘は山菜を洗う手を止め、私をちらりと見た。


「現実が苦しいって。あそこはそういう場所じゃない。」


私は頷いた。彼女の言葉は、痛いほど正しかった。私は誤解をとくこともできず、玄関の近くで小さくなるしかなかった。山菜を洗う娘を見ながら近くに腰を落とした。


 どのぐらいそうしていただろうか。奥の作業場から、金属を打つ音が止んだ。無骨な男が現れた。年の頃は五十代くらい。無精ひげに、煤けた作業着。彼がオジなのだろう。彼は私を一瞥すると、何も言わずに娘の頭をぽんと叩いた。それだけで、娘は少しだけ表情を緩めた。彼は私を見てゆっくりうなづいた。その仕草は、挨拶でも歓迎でもなかった。ただの確認のような、あるいは、見てるぞ、という合図のような。


「オジ、山菜取り行った時に出会った子。うちに泊めていい?」


オジは私をもう一度見た。目は細く、何かを測るような視線だった。私は思わず背筋を伸ばした。


「服はお前のを貸してやれ。」


ただ一言そう言うと、また作業場に戻り、鉄を打つ音が鳴り響いた。

山菜の処理を終わらせた娘の後を着いていく。一人旅に出るぐらいには自分のことはできるつもりだった。しかし、今は娘の近くにいないと感情が溢れ出しそうだった。


「オジは、言葉少ないけど、悪い人じゃない。拾われたときも、何も聞かずに、ただ味噌汁を出してくれた。」


私たちは、縁側に座りながら、町の屋根越しに遠くの山を眺めた。夕暮れが近づいていた。空が少しずつ赤く染まり、町の音が静かになっていく。


「今から夕飯の支度するから手伝って。」


台所には、木のまな板と鉄鍋、すり減った包丁が並んでいた。窓の外はすっかり暮れていて、町の屋根の向こうに、薄い夕焼けが残っている。かまどの火が静かに燃え、部屋の空気をじんわりと温めていた。


「そこで火が消えないかだけ見といて。手、出さなくていいから。」


娘はそう言ったが、私は黙って立ち上がった。彼女が山菜を切っている横に並び、もう一枚のまな板を引き寄せた。


「切るの、手伝ってもいい?」


娘は少しだけ眉をひそめたが、何も言わずに蕗の束を差し出した。


「筋、ちゃんと取ってからね。あと、斜めに切る。」


私は頷いて、指先に集中した。水の音、包丁の音、火のはぜる音。言葉は少なくても、台所には互いの気配があった。


「……オジは、味噌汁しか作らないの。あとは私。最近は全部私が作ってるけど。」


娘がぽつりと言った。私は手を止めずに聞いていた。


「でも、オジの味噌汁だけは、うまい。具は毎日違うけど、味は変わらない。」


「それって、すごいことだと思う。」


娘はちらりと私を見て、少しだけ口元を緩めた。


「うち、出汁は煮干し。文句ある?」


「ない。好き。」


「……なら、切ったら鍋に入れて。」


私は蕗を鍋に移しながら、ふと娘の手元を見る。彼女の指は細くて、節が少し硬くなっていた。山で育った人の手だと思った。


「料理好きなの?」


「好きじゃないけど、やらなきゃ食べられないから。」


「……わかる気がする。」


そのあと、娘は豆腐を切りながら、呟いた。


「結局、どこから来たの?」


「……。」


「言えないなら、言わなくていいよ。うちは、訳ありに優しいから。」


娘は奥の部屋から味噌をとってきた。鍋の湯気が立ち上り、味噌の香りが部屋に広がった。娘は味噌を溶きながら、火加減を見ていた。私は、ただその横に立っていた。竹を吹いて火を整え、湯を沸かす。娘は鍋に山菜を入れながら、


「そこに茶碗と箸あるから。並べてくれる?」


私は、囲炉裏の近くに箸を並べた。漆の綺麗な茶碗を壊さないように両手で包むように持つ。娘が手招きをしたので、慎重に歩いてかまどを見た。木の蓋を外すとむわっと湯気が上がった。麦ごはんである。茶碗を差し出してよそってもらう。ほかほかのごはんを囲炉裏の近くまで運んだ。すべて運び終わると、娘は鍋を囲炉裏にかけた。座ると疲れがどっと出てきた。娘はオジを連れてくると味噌汁をみんなによそった。


「……名前、聞いてないけど」


私は少し驚いて、姿勢を正した。


「京子です」


娘は頷いたが、すぐには名乗らなかった。代わりに、オジが湯呑みを二つ並べ、ひとつを娘に手渡した。


「おまえは」


それだけだった。けれど、娘は少しだけ口元を緩めて、言った。


「千代。」


その声は、空気に溶けていった。私は千代さん、と呼びかけようとして、けれど、「さん」が余分に思えて、ただ「千代」と口にした。千代は何も言わなかったが、否定もしなかった。オジは湯を注ぎながら、千代に言った。


「名前は、道具と同じだ。使わなきゃ、錆びる。」


その言葉に、千代が少しだけ笑った。私は、初めて彼女がこんな風に笑うのだと知った。その夜、味噌汁の湯気の向こうで、私たちは互いの名前を何度か呼び合った。ぎこちなく、二つの影が湯気に写っていた。

夕飯の片付けが終わった頃、千代が話しかけてきた。


「風呂、一緒に入る?」


驚いた。まさかこの家に風呂があるとは思っていなかった。千代は台所の隅に置かれた桶を指さしながら、薪を抱えて外へ出た。私ももらった服を抱えて後を追う。家の裏手に、小さな木造の小屋があった。壁は煤けていて、屋根には杉の葉が積もっていた。千代が戸を開けると、内側には石を積んだ炉と、木桶が並んでいた。天井は低く、空気はひんやりとしていた。


「蒸し風呂。石を熱して、湯気で温まるの。」


千代は慣れた手つきで薪をくべ、火を起こした。石が赤く染まり始めると、桶に水を張り、布で覆った。湯気が立ち上り、室内がじんわりと温まっていく。


「服、脱いで。汗かくから。」


少し戸惑いながらも、ジーパンとTシャツをそっと脱いだ。千代も手ぬぐいを外し、静かに身を包み直す。二人は桶のそばに並んで座った。湯気が肌を撫で、汗がじわじわと滲んでくる。


「……静かだね。」

私が言うと、千代は頷いた。


「火の音しか聞こえない。だから、考えすぎる。」

私は目を閉じた。家族、昼間の出来事、トンネル、町、千代の家。すべてが夢のようで、でも現実だった。湯気の中で、少しずつ心がほどけていく。


「千代は、ここが好き?」


「好きじゃないけど、居場所だから。」


その言葉に、目を開けた。千代の横顔は、湯気に包まれて柔らかく見えた。


「私も、居場所が欲しかった。世界への実感が。」


千代は何も言わなかった。ただ、そっと桶の水をすくい、京子の肩にかけた。ぬるい水が肌を伝い、火照った体を冷ました。


「汗、流すだけでも、少し楽になる。」


私は頷いた。二人はしばらく黙って座っていた。火がぱちぱちと鳴り、湯気が天井にゆらめく。言葉はなくても、そこには繋がりがあった。私の頬に熱が集まる頃、千代が立ち上がり、桶の水を手ぬぐいで拭いながら言った。


「そろそろ出よう。冷える前に。」


私も千代に続いて立ち上がり、体を拭いた。着物を着て出ると、外の空気が肌に心地よかった。夜空には星が滲み、町の屋根が静かに眠っていた。


「ありがとう、千代。」


千代は何も言わず、ただ小さく頷いた。その背中を見ながら、私は思った。千代に出会えてよかった。風呂上がりの私たちは部屋に戻った。千代に教わりながら布団を敷き、一緒の布団に横になった。私たちの様子を見てオジは心配そうに尋ねた。


「……寒くないか。」


低く、短い声だった。私は眠い目を開きつつも、すぐに首を振った。


「大丈夫です。布団、あったかいです。」


オジはそれ以上何も言わず、湯をすすった。囲炉裏の火がぱちぱちと鳴り、三人の影が畳に揺れていた。オジはしばらく火を見つめていたが、やがて立ち上がり、押入れからもう一枚の布団を引き出した。囲炉裏の向こう側に敷いて、静かに横になる。


「オジも、ここで寝るの?」

京子が小さく尋ねると、千代が答えた。


「いつもそう。囲炉裏のそばが好きなの。」


オジは何も言わなかった。ただ、布団に入ったまま、天井を見ていた。火の明かりが彼の顔を照らし、無精ひげの影が揺れていた。


「明日は市に行ってきなさい。二人とも仲良しになったようだし。」


その言葉に、私も千代も黙った。私は市について聞きたいことがあったが、暗くなる視界にあらがえなかった。火が静かに燃え続ける中、三人はそれぞれの布団の中で、目を閉じた。外では風が杉の葉を揺らし、遠くで鳥の声がかすかに響いていた。囲炉裏の火が、夜の静けさをやさしく包み込んでいた。

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2026年1月21日 06:00
2026年1月22日 06:00
2026年1月23日 06:00

駿河の踊子 早乙女姫織 @saotome27

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