第6話|ファンタジーに対抗できんのは、いつだってラブコメだけなんだよ
屋上の扉は、最初から開いていた。
夜風が吹き抜ける。
街の灯りが、やけに遠い。
フェンスの向こう、縁ぎりぎりの位置に、沙羅は立っていた。
足元には、チョークで描かれた円。
意味の分からない文字列。
スマホの画面に表示されたメモを見ながら、沙羅は丁寧に位置を調整している。
――儀式だ。
遊びでも、冗談でもない。
本気の、異世界転生。
「……やっぱ来たんだ、ぐぐるん」
振り返らずに、沙羅が言った。
「当たり前だろ」
喉が、異様に乾いている。
一歩でも近づいたら、彼女が飛ぶ気がした。
「ね、ちゃんと条件そろってるでしょ」
沙羅は、楽しそうですらあった。
「世界に居場所がないこと」
「この世界に未練がないこと」
「それから――」
細い指が、宙をなぞる。
「向こうで生きたいって、心から願ってること」
フェンスの向こうは、暗い。
ここから落ちれば、終わる。
それでも沙羅は、死ぬとは思っていない。
転生すると信じている。
今までの俺なら、叫んでいた。
やめろ。
危ない。
意味がない。
でも、それじゃ届かないと、もう分かっていた。
――俺がやってきたのは、全部対処療法だった。
止めて、叱って、連れ戻して。
「今日」を乗り切るだけ。
なぜ異世界に行きたいのか。
なぜ現実に立っていられないのか。
聞かなかった。
聞くのが、怖かった。
「なぁ、沙羅」
声が、思ったより落ち着いていた。
「それ、本当に異世界に行く方法か?」
「うん」
即答だった。
「だって、ここにはもう、私の役がないもん」
クラスLINE。
昼休みの輪。
誰にも呼ばれない名前。
沙羅は、それを最初から欲しがっていなかった。
欲しがっていたのは、俺だけだ。
――だから。
俺は、全部捨てた。
理屈も。
正しさも。
現実という言葉も。
「ファンタジーに対抗できんのは、いつだってラブコメだけなんだよ」
沙羅が、初めて振り返った。
「……なに、それ」
「今から言うのは、異世界の話じゃない」
俺は一歩、踏み出した。
円の縁まで。
「東条沙羅」
名前を呼ぶ。
「俺は、お前が好きだ」
夜が、止まった気がした。
「人魚だろうが、魔法少女だろうが」
「異世界に行きたいって言い出そうが」
声が、少し裏返る。
「それでも、俺はお前と一緒にいる方を選ぶ」
沙羅の瞳が、大きく揺れる。
「……ずるい」
「知ってる」
「そんなの、反則じゃん……」
儀式は、感情に弱い。
設定は、現実の言葉に耐えられない。
「異世界に行くならさ」
俺は、はっきり言った。
「俺を置いて行くな」
沈黙。
風の音だけが、屋上を通り抜ける。
やがて、沙羅が一歩、後ろに下がった。
円から、足が外れる。
「……今回の転生、失敗だね」
泣き笑いだった。
膝が抜けて、俺はその場に座り込む。
助けたのか。
壊したのか。
分からない。
「でもさ、ぐぐるん」
沙羅は、いつもの調子で言った。
「また行きたくなったら、どうする?」
心臓が、嫌な音を立てる。
俺は立ち上がり、手を差し出した。
「その時は」
一瞬だけ、迷ってから。
「俺も異世界に生きる」
沙羅はきょとんとして、
それから、すごく嬉しそうに笑った。
「……共犯だね」
「ああ」
異世界は、なくならなかった。
沙羅も、変わらなかった。
ただ、
もう一人で行かせないと決めただけだ。
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