第4話「砕け散った運命の欠片」
抑制剤をやめてから、世界は再び色を取り戻した。同時に、感情の波も激しくなった。特に、橘蓮に対する気持ちは、自分でも制御できないほどに揺れ動いていた。
彼に会いたいと思う自分と、これ以上深入りしてはいけないと警告する自分が、心の中で絶えず争っている。
あの日、体調を崩した蓮をタクシーに乗せて帰してから、彼は三日ほど店に顔を見せなかった。心配だったが、連絡先も知らない俺にできることは何もない。
ただ、彼の不在が、店の空気をやけにがらんとしたものに感じさせた。毎日聞こえていたドアベルの音がしないだけで、こんなにも寂しいなんて。
『俺は、どうかしてる』
カウンターに頬杖をつき、ため息を吐く。
脳裏に蘇るのは、大学時代の記憶。あの頃の俺は、もっと素直で、人を信じることを知っていた。
***
「湊!見つけた」
図書館の隅で本を読んでいた俺の前に、太陽みたいな笑顔が現れた。藤堂灰都。同じ大学に通う、一つ年上のアルファ。
「灰都さん……静かにしてください、ここ図書館です」
「わりぃわりぃ。でも、お前のフェロモン、すぐ分かるんだよな。なんか、雨の日の花の匂いっていうか……落ち着く」
灰都はそう言って、俺の隣に当たり前のように座った。彼のフェロモンは、真夏の向日葵のように明るく、力強い。その香りに包まれると、いつも安心した。
俺たちは、いわゆる「運命の番」だった。
初めて会った瞬間に、雷に打たれたような衝撃と共に、互いが唯一無二の存在だと理解した。世界中のどんなアルファやオメガより、彼の香りは甘く、彼の存在は俺を満たした。
「卒業したら、すぐに籍を入れよう。そんで、日当たりのいい部屋で、お前が好きな花をいっぱい育てるんだ」
灰都はよく、そんな未来の話をした。俺も、その言葉を疑うことなんてなかった。彼がいれば、何もいらない。そう本気で思っていた。
幸せの絶頂。だが、それはあまりにも脆く、唐突に終わりを告げた。
灰都の卒業が間近に迫った、ある冬の日。
彼に呼び出された俺は、いつものように大学の屋上へ向かった。しかし、そこにいた灰都は、いつもとは全く違う、冷たい目をしていた。
「湊、別れてくれ」
「……え?何言ってるんですか、冗談……」
「冗談じゃねぇよ」
彼の口から語られたのは、信じがたい現実だった。
彼の家は由緒ある旧家で、親が決めたオメガの許嫁がいること。その相手は、俺なんかとは比べ物にならないほど家柄が良く、優れたオメガであること。
「運命の番じゃなかったのかって?ああ、そうかもな。でもな、湊。運命なんて、家柄の前じゃ何の役にも立たねぇんだよ」
彼は吐き捨てるように言った。
「お前みたいな、平凡で何の取り柄もないオメガを、うちの家が認めるわけないだろ。今まで楽しかったよ。お前、素直で可愛かったしな」
目の前が、真っ暗になった。
砕け散ったのは、俺たちの未来だけじゃない。俺という人間の、尊厳そのものだった。
運命だと信じていた絆は、ただの火遊びだった。俺は、彼の家柄の良い婚約者が見つかるまでの、都合のいい繋ぎでしかなかったのだ。
最後に彼が言った言葉を、俺は一生忘れないだろう。
「じゃあな。せいぜい、抑制剤でも飲んで、まともなフリして生きていけよ」
それ以来、俺の時間は止まった。
人を愛することも、信じることもできなくなった。アルファの優しさは全て、下心があるようにしか見えなくなった。
運命なんて、クソくらえだ。
***
チリン、とドアベルの音がして、俺は過去の記憶から引き戻された。
そこに立っていたのは、少し痩せたように見える、橘蓮だった。
「……橘さん」
「心配をかけたかな」
彼は少し気まずそうに笑った。その顔はまだ少し青白い。
「体調は、もういいんですか」
「ああ、君のおかげで。本当に助かった」
蓮はそう言うと、カウンターに小さな紙袋を置いた。
「これ、お礼だ。大したものではないが」
中には、有名な洋菓子店の焼き菓子が詰まっていた。
「こんなもの、いただくわけには……」
「俺のわがままだと思って、受け取ってほしい。じゃないと、俺が君に会いに来る口実がなくなってしまう」
彼の言葉に、胸が詰まる。
どうして、この人はこんなにも真っ直ぐなんだろう。
俺は、もう誰も信じないと決めたはずなのに。灰都と同じ、アルファだというのに。
「……ありがとうございます」
俺は、かろうじて礼を言うと、紙袋を受け取った。
蓮は、心から安堵したように微笑んだ。その笑顔は、灰都の太陽のような笑顔とは違う。まるで、曇り空から差し込む、一筋の光のような、穏やかで優しい笑顔だった。
この光に、手を伸ばしてもいいのだろうか。
また、裏切られるだけだと分かっているのに。
砕け散った心の欠片が、彼の前ではちりちりと痛みを訴えていた。
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