第3話「その優しさは劇薬だ」
抑制剤を倍量にした翌日、身体は鉛のように重かった。副作用だ。頭痛とめまい、そして、感情の起伏がほとんどなくなる。世界が灰色に見えるような、奇妙な感覚。でも、それでよかった。心を乱されるよりはずっとましだ。
閉店間際、案の定、橘蓮はやってきた。
彼の姿を視界に捉えても、心臓は静かなままだった。薬が効いている証拠だ。
「こんばんは」
「……いらっしゃいませ」
感情の乗らない声で返すと、蓮はわずかに眉を寄せた。俺の異変に気づいたのかもしれない。
「顔色が悪いようですが、大丈夫ですか」
「平気です。何になさいますか」
壁を作るような俺の態度に、蓮はそれ以上何も言わず、小さなサボテンを選んだ。
会計を済ませ、彼が店を出ていく。いつもと同じ光景。なのに、今日は何も感じなかった。安堵も、寂しさも。
ただ、胸のあたりにぽっかりと穴が空いたような、虚しさだけが残った。
『これで、いいんだ』
自分に言い聞かせ、俺は店のシャッターを下ろした。
それから数日、俺は抑制剤を倍量で服用し続けた。体調は最悪だったが、心は凪いでいた。蓮が毎日店に来ても、事務的な会話を交わすだけで、心は動かない。彼も何かを察しているのか、以前より口数が減ったように思う。
その日も、蓮は閉店間際にやってきた。珍しく、何も買わずにカウンターの前に立っている。
「何か……?」
訝しんで尋ねる俺に、蓮は静かな声で言った。
「藍沢さん」
初めて名前を呼ばれた。表札でも見たのだろうか。どきりとしたが、薬のおかげで表情には出ない。
「あなたに、無理をさせているだろうか」
彼の灰色の瞳が、心配そうに揺れていた。
その瞳を見ていると、薬で固めたはずの心の壁に、ひびが入っていくような気がした。
「……何のことです?」
「俺が毎日ここに来ることで、あなたを追い詰めているんじゃないかと」
図星だった。でも、認めるわけにはいかない。
「自意識過剰じゃないですか。俺はただ、仕事をしているだけです」
冷たい言葉が、自分の口から滑り出た。
蓮は傷ついたような顔をしたが、すぐに穏やかな表情に戻った。
「そうか。ならいいんだ」
彼はそう言うと、踵を返した。
いつもなら、ここで何か一つ花を買っていくのに。今日はこのまま帰るのだろうか。
そう思った瞬間、彼の身体がぐらりと傾いだ。
「橘さん!」
俺は咄嗟にカウンターから飛び出し、彼の身体を支えた。信じられないほど熱い。額に触れると、火傷しそうなほどだった。
「あなたこそ、顔色が悪い……熱があるんじゃ」
「……少し、無理をしただけだ」
蓮は俺の腕の中で、苦しそうに息を吐いた。彼の首筋から、いつもより濃い森の香りが立ち上る。それは、弱ったアルファが助けを求めるフェロモンだった。
『どうしよう……』
こんな状態の人間を、一人で帰すわけにはいかない。ましてや、彼は毎日花を買いに来てくれる、大切なお客さんだ。
俺は覚悟を決めた。
「立てますか。すぐそこのベンチまで」
店の前の小さなベンチまで、なんとか彼を運び、座らせる。俺は急いで店に戻り、ミネラルウォーターと濡らしたタオルを持ってきた。
「これで、少し冷やしてください」
タオルを彼の額に乗せてやる。蓮はされるがままになっていた。よほど体調が悪いのだろう。
「すみません、迷惑を……」
「いいえ。いつも買ってもらってるお礼です」
しばらく沈黙が続いた。雨は上がっていたが、空気はまだ湿っている。街灯の光が、濡れたアスファルトに反射して滲んでいた。
「どうして、そこまでして店に……」
聞かずにはいられなかった。こんな体調になるまで無理をして、毎日花を買いに来る理由が分からなかった。
蓮はゆっくりと顔を上げた。熱のせいか、彼の瞳は潤んで見えた。
「会いたかったからだ」
まっすぐな言葉だった。何の飾りもない、ただ純粋な響き。
俺の心臓が、薬の支配を突き破って、大きく音を立てた。
「あなたに、会いたかった。それだけだ」
彼の優しさは、劇薬だ。俺がずっと蓋をしてきた、心の傷口にじわりと染み込んでくる。痛くて、でも、どこか温かい。
俺は、このアルファを拒絶しきれないのかもしれない。
そんな予感が、雷のように身体を貫いた。
顔を上げられない俺の隣で、蓮は静かに息をしていた。彼の弱ったフェロモンが、俺の心をなだめるように優しく包み込む。
その夜、俺は初めて、抑制剤を飲むのをやめた。
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