第5話「指先に灯る微熱」

 蓮から貰った焼き菓子は、結局食べることができなかった。箱を開けるたびに、彼の優しい笑顔が浮かんで、胸が苦しくなる。俺なんかが、こんな温かいものを受け取る資格はない。そう思って、戸棚の奥にしまい込んだ。


 蓮は、あの日以来、また毎日店に来るようになった。 蓮から貰った焼き菓子は、結局食べることができなかった。箱を開けるたびに、彼の優しい笑顔が浮かんで、胸が苦しくなる。俺なんかが、こんな温かいものを受け取る資格はない。そう思って、戸棚の奥にしまい込んだ。


 蓮は、あの日以来、また毎

 しかし、以前とは少しだけ様子が違っていた。彼は無理に俺と話そうとせず、ただ静かに店内の椅子に座って、俺が仕事をする姿を眺めていることが増えた。その視線は穏やかで、不思議と不快ではなかった。まるで、傷ついた小動物を遠くから見守るような、そんな優しさがあった。


 こちらも、抑制剤をやめたことで、彼の存在をより強く感じるようになっていた。

 深い森の香り。そのフェロモンが店内に満ちると、不思議と心が落ち着いた。長年、薬で無理やり押さえつけていたオメガの本能が、彼の香りを求めているのが分かる。それは、灰都に対するものとは全く違う、穏やかで安心できる感覚だった。


『危険だ』


 頭の中では、常に警報が鳴り響いている。

 この心地よさに身を委ねてはいけない。一度心を許せば、また奈落の底に突き落とされる。分かっているのに、身体は正直だった。


 その日は、新しい花の仕入れで朝から忙しく、昼食をとる時間もなかった。夕方になり、ようやく一息ついた頃、急に目の前が暗くなり、強い立ちくらみに襲われた。


「うっ……」


 カウンターに手をついて、なんとか倒れるのを堪える。貧血だろうか。最近、まともに食事をしていなかったせいかもしれない。

 その時、間の悪いことに、ドアベルが鳴った。橘蓮だ。


「藍沢さん?どうしたんだ、顔が真っ白だ」


 蓮は俺の異変に気づき、慌てて駆け寄ってきた。


「大丈夫です、少し、立ちくらみがしただけで……」


 強がる俺の言葉を、彼は聞かなかった。俺の腕を掴むと、いとも簡単にバックヤードの休憩室にあるソファまで運んでいく。


「少し休んでいなさい。何か、温かいものでも飲んで」


 彼はそう言うと、勝手知ったる様子で給湯室へ向かい、やがてマグカップを二つ持って戻ってきた。一つを俺に手渡す。中からは、蜂蜜と生姜の甘い香りがした。


「……どうして、ここにポットがあるって」


「この間、君が使っているのを見たから」


 彼は当たり前のように言う。俺が気づかないところで、彼は俺のことを見ている。その事実が、心臓を鷲掴みにする。


 温かい液体が、冷え切った身体に染み渡っていく。少しだけ、気分が楽になった。


「ありがとうございます」


「食事、摂っているのか」


 まっすぐな瞳で問われ、俺は目を逸らした。


「……あまり、食欲がなくて」


「ダメじゃないか。自分の身体を大事にしないと」


 まるで子供を諭すような、優しい口調。なぜだか、泣きたくなった。

 今まで、誰も俺のことなんて気にかけてくれなかった。体調を崩しても、一人で耐えるしかなかった。それなのに、この人は、出会ってまだ間もない俺のことを、こんなにも心配してくれる。


「……あなたには、関係ないでしょう」


 素直になれない自分が嫌になる。優しさを受け取ることが怖い。


「関係なくない」


 蓮は、きっぱりと言った。


「君が苦しんでいるのを見るのは、俺が辛い」


 彼の言葉が、心の深いところに突き刺さる。

 どうして。どうして、そんなことを言うんだ。俺たちの間に、何の関係もないはずなのに。


「俺は……アルファが、怖いんです」


 気づけば、そんな言葉が口から漏れていた。一度口にしてしまうと、堰を切ったように感情が溢れ出す。


「優しくされても、どうせ裏切る。都合が悪くなれば、簡単に捨てる。そうでしょう?」


 声が震える。涙が溢れて、視界が滲んだ。みっともない。こんな姿、誰にも見せたくなかったのに。


 蓮は何も言わずに、俺の隣に座った。そして、そっと俺の手に、彼の手を重ねた。大きくて、温かい手。その熱が、俺の冷たい指先に、小さな灯りをともすようだった。


「全てのアルファが、そうだとは思わないでほしい」


 静かな、けれど強い意志のこもった声。


「俺は、君を傷つけるようなことは、絶対にしない」


 信じられるわけがない。

 でも、彼の手の温かさは、彼の声の響きは、嘘をついているようには思えなかった。


 俺は、重ねられた彼の手を振り払うことができなかった。

 ただ、その微かな熱を感じながら、声を殺して泣いていた。

 蓮は、俺が泣き止むまで、ずっと黙って隣にいてくれた。彼の深い森の香りが、俺を優しく包み込んでいた。

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