第1話 おじさんLINEと浜菊の夜
午後四時。
店の鍵を開ける音が、湿った路地裏にカチャリと響く。
誰もいない bar
冷気が肌を刺すが、カウンターの木目はどこか温もりを湛えていた。
清水は、棚の奥に置かれた細長いシャンパングラスに水を半分ほど注ぎ、そこに一輪の浜菊をそっと手向けた。
──その隣、埃が積もらないように、ひときわ静かに並べられたひとつの髪留。
小さな淡いピンクのバレッタ。
誰にも触れられぬよう、決して忘れぬように。
清水は視線をそこに置き、一瞬だけ呼吸を止める。
やがて静かに背を向け、氷を砕きはじめた。
店内に灯りがともると同時に、彼の顔はいつもの表情に戻る。
そして、今日の夜が始まる。
導かれるように、誰かが、何かを抱えて訪れる。
夜十時。
表通りでは、刺激の強いネオンが若者たちを色濃く照らしている。
通りを抜ける笑い声と四つ打ちの音楽が混ざり合い、刹那的な週末を謳歌していた。
その喧騒から切り離された、人通りのない一角。
ウォールライトが、扉の小さな「OPEN」の札だけを、厳かに照らし出している。
カラン、と乾いた鈴の音が鳴り、人影が店内へ差し込む。
「マスター、こんばんは……」
スーツ姿の中年男性が一人、疲労を滲ませてカウンターへ歩み寄る。
その背中は、週の終わりまでの全部を詰め込んできたような重さ。
「いらっしゃいませ」
清水はボトルのラベルから視線を外さず、短く、しかし柔らかく迎え入れる。
男はカウンターの中央に腰を沈め、窮屈そうなネクタイを緩めた。
「いつもの、お願いします。あ、少し濃いめで」
清水は無言のまま、棚から〈ボウモア〉を抜き取る。
グラスに氷を滑らせ、琥珀色の液体を一筋注ぎ、炭酸を満たしていく。
泡が勢いよく広がり、甘い香りがふわりと立った。
「どうぞ」
コースターを滑らせ、グラスを置く、ひとつ頷きを添えて。
男はそれを口に運び、喉を鳴らし後、疲れの息をひとつ吐いた。
「ふ~、やっぱり美味しいですよ」
「ありがとうございます」
アルコールが血管を巡り、強張っていた肩の力が抜け落ちていく。
清水はいつも通り、男の斜め前に立ち、また氷を削り始める。
スピーカーを揺らす古いジャズと、氷が砕ける鋭い音。そこに言葉は不要だった
短い針が円の半分を過ぎた頃、カウンターの隅に置かれたスマホが震えた。
聞き飽きたメッセージアプリの通知音。
清水はそれを拾い上げ、画面を滑らせる。
目に映るのは、常連客からの他愛ない問い。
拙い動きの指先で文字をなぞり、元の場所へと戻した。
その様子を目で追っていた男が、ぽつりと口を開く。
「マスターもLINEやってるんですね」
「……はい、仕方なくやっています」
「ははは。商売柄、必要でしょうしね」
男は自嘲気味に笑うと、自身のスマホの画面を開き、確認する。
そして、スマホを伏せ、誰に聞かせるでもない声を漏らした。
「……やっぱり来てないか」
清水はタオルを丁寧に畳み直し、聞こえていないことを小さな動きで伝える。
男は、無意識に息遣いを上げ下げさせている。
そして、それまでの鬱屈した心の内を吐露しはじめた。
「LINEって……いや、コミュニケーションって難しいですよね」
「……そうですね。後悔ばかりです」
「はは、マスターほどの人がそうなら、私なんては尚更だ……」
男は一拍の呼吸おいて、言葉を継ぐ
「……今日、会社で“おじさんLINE”って言われたんですよ」
清水は返事をしない。
ただ、別のグラスの氷を丁寧に崩しながら、意識だけを男へ傾ける。
「『〇〇チャン了解です😊💛😊』って返信しただけなんですよ」
「そうしたら相手の子が、『絵文字クドいからやめたほうがいいですよ』って……ハハ……」
男はグラスを握ったまま乾いた笑い声を上げたが、その響きには諦念が混じっていた。
清水は手元のマドラーをゆっくりと回す。
特に反応はしないが、身体の重心だけは男の方へ向けていた。
「スタンプも多いし、カタカナ使うし、語尾に『〜ね』とか『!』とか。たしかに付けがちなんですよ。
でも、それって……そんなに変ですかね。まあ、変なんでしょうね」
男はそう自嘲すると、半分ほど残っていたハイボールを喉へ流し込んだ。
酔いに任せて、無理やり納得しようとしているかのように。
「その子、私のLINEをスクショして。“おじさんLINEコレクション”って、社内の若い子と共有していて。
その話を同僚に聞かされた時、なんか……怒るっていうより、ただただ情けなくなって……」
男は作り笑いを浮かべるが、頬の線だけは真っすぐだった。
清水は、男の言葉が独りにならないよう、次のレコードに針を乗せる。
「娘にもね、言われたことあるんです。
『お父さんのそのLINE、見てる方が恥ずかしくなるからやめて』って」
「自分でもわかってるんです。コミュニケーションを取るのに必死だなって」
「でも、何が正解かわからないんですよ。ウケ狙いとか、若ぶったわけじゃなくて……
ただ、嫌われないよう、柔らかく伝えようと思っただけで……」
男はカウンターに視線を落とし、連なる雫を見つめたまま動かない。
清水はクリスタルの灰皿を磨き上げながら、その独白を沈黙の中で受け止めていた。
「仕事でも家でも、怒っちゃダメだって、ずっと思ってきたんです。
怖がられたくないし、いまどきの子は敏感だから……」
カラン、とグラスの中で氷が崩れ落ちた。
「……それが、『気持ち悪い』の一言で。
怒らないおじさんって、ただの無害な人なんですかね」
清水は無言のまま、磨き上げられた三つ目の灰皿を重ねる。
揺らめく琥珀の照明が、ふと、あの夜の静寂を脳裏に蘇らせる。
問いかけるような眼差しを向けられながら、何も返せなかった自分。
あの時、自分はただテーブルの端に目を落とすことしかできなかった。
男はグラスを持ち上げ、泡の音に耳を澄ませながら、しばらく黙っていた。
そしてふと、自分に言い聞かせるみたいに笑う。
「こんな話、誰にも言えなくて。つまらない話、すみません」
「気になさらずに」
清水は短い言葉で促す。
男は軽く顎を引き、伏し目がちに、本音をこぼす。
「……実は、娘からの返信がないんです。昨日から、ずっと」
清水の手で揺れていた布巾が、グラスの縁でぴたりと止まる。
「昨日、強めに注意したんですよ。テストの点数、これはまずいだろって。
LINEなんかしてる場合じゃないって。その一言が余計だったのかもって、ずっと考えてて」
男の何度目かのため息には、微かな震えが混じっていた。
「既読がつかないって、あれ、拒絶じゃないですか。
それが一番、こたえるっていうか……。様子をうかがう自分に、へこんだりして」
清水は新しい氷をひとつ落とす。
グラスの中で鳴った音が、妙に深く、長く残った。
返事がないという時間の重みを、清水は知っていた。
それが、ただの沈黙ではなく、相手の心が少しずつ離れていく過程だと知ったのは、すべてが終わった後のことだった。
棚の隅に置かれた浜菊は、微笑むこともせず、ただ凛として花弁を開いている。
「……娘にまで、顔色をうかがってるんです。
ちゃんと向き合いたいのに、焦って言葉を丸めて。
早くなんとかしなきゃって……」
清水は一度だけ瞼を伏せ、布でグラスの縁を丁寧に拭いながら、静かに言葉を置いた。
「……歩く歩幅も、人それぞれですよ」
男の顔は、糸がほぐれるように緩んだ。
それは愛想笑いではなく、ほんの数ミリだけ救われた表情。
「……ありがと、マスター」
男はそう呟き、二杯目のハイボールをゆっくりと味わいながら、バックバーに置かれたバーボンの瓶を見つめていた。
そのラベルには、天使の羽が描かれている。
清水は空いたグラスを手に取り、光る水滴に布巾を滑らせる。
その時、ドアが開いた。
少々厄介な常連客が、いつもの指定席へと腰を下ろす。
清水は条件反射のように灰皿を差し出し、紫煙がくゆり始めた店内を見渡す。
扉が開いた拍子に流れ込んだ風に、シャンパングラスの浜菊が微かに揺れていた。
伝えるべき時が来るのを、静かに待ち望んでいるかのように。
bar DESCENDの夜は、今日もひとつ、言葉にならなかった想いを沈めていく。
──Tonight’s Tune: Bill Evans Trio / Very Early
bar DESCEND ~沈まる場所~ 蛯永 終 @owariebinaga
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