第一話「404エラー ─ ロジック、見つからず」

俺は異世界にいる。

俺の世界。

十四歳の時に俺が作った、あの黒歴史(せかい)だ。


気がつくと、俺は広場の真ん中に突っ立っていた。見上げれば、嘘みたいに綺麗な青空。だが視線を落とした先の地平線には、不格好極まりない『完全な三角形』の山々がそびえ立っていた。まるで誰かが適当に配置したピラミッドだ。その上空に浮かぶ歪な天体は、遠目に見ても色がコロコロと変わっているのが見て取れる。


「……アホかよ」


足元の道は無意味にうねり、規則性のかけらもない。やたらと長いだけの道もあれば、唐突にプツリと途切れる道もある。まるで子供が積み木遊びで作ったような設計……いや、あながち間違ってもいないのが辛い。


振り返って現在地を確認しようとすると、視界を圧迫するように巨大な王宮が飛び込んできた。黄金の塔に、巨大な鏡のごとく陽光を反射するステンドグラス。建設に数十年、維持にはそれ以上の労力がかかりそうな代物だ。


そしてその真横、王宮の壁から目と鼻の先、わずか三メートルほどの場所に、無数の民家がひしめいていた。古びた木材に、微風で吹き飛びそうな藁葺き屋根。よく言っても『低予算住宅』としか表現しようがない。


貴族街への遷移もなければ、中流層の居住区もない。幼稚園児が粘土遊びで無理やりくっつけたみたいに、すべてが雑多だ。その光景は、この場所で最も美しい王宮という宿主に群がる寄生虫のようだった。


俺は歩き出し、畑や果樹園を探してみた。この規模の王宮を維持するための経済基盤がどこかにあるはずだ。だが、何もない。あるのはボロ屋と王宮だけ。そして遠くに一つだけ、異様な存在感を放つ荘厳な建物が見えた。あれは間違いなく『冒険者ギルド』だ。王宮よりも美しく、小ぶりながらも銀色に輝く二、三階建ての建造物。


その時、茶色く変色した今にも崩れそうな店の軒先で、風に吹かれてキーキーと悲鳴を上げる看板が目に入った。


『今年の収穫に自信あり! 高品質な革入りました!』


まるで農作物か何かのように『収穫』と書かれている。そのシュールさもさることながら、さらに俺を戦慄させたのは、看板の隅に躍る『当村唯一の産業』という文字だ。つまり、この村は革だけで食っていることになる。


その瞬間、今まで感じたことのない感覚、十四歳の頃の記憶が唐突に脳裏をよぎった。


『勇者の初期村:王宮、あとは一般住宅(安物)』

『冒険者ギルド:荘厳で美しく、豪華に。この世界におけるギルドの重要性を示すため』


確かに俺はそう書いていた。

なぜ今思い出した?

いや、完全に忘れていたはずなのに、物語の冒頭部分の設定(プロット)が鮮明にフラッシュバックする。


そこで気づいた。俺は住人が何をして生活するかを設定し忘れていたのだ。だから世界が、あるいはこの空間を構成する何かが、アドリブで穴埋めをしたのだろう。

そして、その『何か』が下した判断は、「とりあえず全員、革を売らせておけ」というものだったらしい……なんでだよ。


「おい、そこのよそ者!」


野太い声が、俺を存亡の危機(アイデンティティ・クライシス)から引き戻した。


振り返ると、金髪に鋭い緑色の瞳をした男が、興味深そうに俺を見ていた。擦り切れたリネンのチュニック、革のベルト、無骨なブーツ。完璧な中世ヨーロッパ風の村人Aだ。時代劇のセットに迷い込んだかのような錯覚を覚える。


……待てよ。

そういえば俺は、転生した勇者がすぐに言葉を理解できるような『翻訳チート』や『言語システム』を導入していなかったはずだ。

それが意味することは一つ。彼らはナチュラルな日本語を話している。それも古風な言い回しではなく、俺が友達(いればの話だが)と話すような、ごく普通の現代日本語だ。ここに来る直前に話していた、あの優柔不断な女神と同じように。


「ここに来るのは初めてか? 道に迷ってるみたいだがよ」


俺は思わず固まった。当然だ。コテコテの西洋風ファンタジーの住人が、流暢な日本語で話しかけてくるのだから。中世という設定を考えればありえない光景に、返答に詰まる。


どう接すればいい? 俺が創造主だと知っているのはあの女神だけだ。この男は俺より年上に見えるが、設定上は俺の息子のようなもの……なのか?


単に主人公が言語を学ぶ過程や体系を考えるのが面倒で放置しただけだったが、今はその怠慢(ツケ)を払わされている。いや、正直に言えば好都合か。


「まあ……あー、そうだな。新入りと言えなくもない」


俺は認知的不協和を起こしそうになりながら、なんとか答えた。


「ふうん……ま、仕事を探してるなら、ここはどいつもこいつも革職人かパン屋だ。それ以外の仕事はねえぞ」


「じゃあ、その……」


男の言葉の意味を深く考えたくなくて、俺は言葉を濁した。


「景気はどうなんだ? その、経済的に……」


「見りゃわかんだろ?」


男は辺りを見回した。


「順調そのものよ。昔っからこうやってうまくいってんだ。いまさら上手くいかねぇ道理があるか?」


その瞬間、「わけがあるか!」と叫び出したくなった。家畜もいなけりゃ近くに小麦畑もないのに、村人全員が革を売ってパンを焼いて生活が成り立つわけがない。


だが男は、そんな俺の葛藤など知る由もなく、自身の完璧な循環論法(サークラー・ロジック)に満足しきった様子で、平然と歩き去っていった。


...


存亡の危機(アイデンティティ・クライシス)に浸っている場合じゃない。動かなきゃダメだ。ここで立ち止まっていたら、この土と草の地面と同化して、正真正銘の引きこもりに逆戻りしてしまう。

俺は意を決して、目の前にそびえ立つ建物、おそらく『ギルド』であろう場所へと足を向けた。腹の虫が限界を訴えている以上、とにかく金を稼ぐ必要がある。


皮肉な話だ。この世界が俺を突き動かしている。

孤独な生活は終わった。生きたければ動くしかない。前世の俺は学校にも行かず、働きもせず、十七歳にして人生の迷子だった。だが今、同じ十七歳の俺は……食うために、人生初の『労働』に挑もうとしている。


素晴らしい。最高だ。

ただ一つ問題があるとすれば、働く場所がまともじゃないことだ。何度でも言うが、ここはずさんな創造主(オレ)が作った欠陥世界(バグワールド)なのだから。


「ふぅ……」


俺は長く重い息を吐いた。


「入って、出るだけだ。クエストを一つこなすだけ。それほど難しいことじゃない」


見上げれば、巨大な銀の看板が掲げられている。


『冒険者ギルド』


その無駄に豪華な輝きが、無言で主張していた。『予算のすべてをここに突っ込みました』と。


ふと横を見ると、一人の老人が背を丸め、虚空の壁を意味ありげに見つめていた。俺はとりあえず、ギルドについて尋ねてみることにした。


「あの……すみません。このギルド、ずっと前からここにあるんですか?」


老人が弾かれたように振り返った。

なんだ今の動き?

背筋がバキボキと不快な音を立てて垂直に伸び、信じられないものを見るような目で俺を凝視する。「空はずっと前からそこにあったのか?」とでも言いたげな顔だ。


「ああ、そうだとも。太古の昔からな」


まるでそれが世界の真理であるかのように答える老人。


「でも……この村の人口はどれくらいなんです?」


「百五十人じゃ。あんたを含めれば五十一人だな」


「……王都まではどれくらいで?」


「ああ、かなり遠いぞ。徒歩で二ヶ月はかかる」


「はぁ……」


俺は視線を逸らした。

お爺さん、計算が合ってない。人が減ってるぞ。

これ以上、彼の算数に付き合うのは危険だ。


「お爺さん、背中は……」


「何の話じゃ……? おや」


老人は本能的に背中に手を回すと、カッと目を見開いた。次の瞬間、年寄りとは思えないキレのある動きで地面にひれ伏した。


「おお……ありがたや、勇者様……ありがたや……」


そして彼は立ち上がり、年齢不相応なウサギ跳びのような動きで去っていった。

……どうでもいい。少なくとも、何か「良いこと」をしたフラグは立ったらしい。たとえその過程が意味不明だとしても。


冷静になって情報を整理しよう。


人口百五十人(あるいは五十一人)の寒村に、王都から徒歩二ヶ月の距離。周囲は藁葺きのボロ家。そこに鎮座する、『世界の王』が住まうごとき豪華絢爛な冒険者ギルド。


当然だ、と俺は自分に言い聞かせた。深く息を吸い、ギルドの扉を押し開ける。


内装はさらに常軌を逸していた。

クリスタルのシャンデリア、大理石の床……ロビーの中央には人魚を模した装飾的な噴水まである。その人魚の鱗には、本物の宝石が埋め込まれていた。


考えるのはよそう。

俺はカウンターへと向かった。そこには、俺を『見つめる』受付嬢らしき女性がいた。


いや、『女性』とか『見つめる』というのは、あまりにも好意的な表現だ。


人間の体をしている。青い髪は団子にまとめられ、完璧な受付嬢の制服を着ている。胸元の開いたデザインが、豊満な胸部を強調しているのも見て取れる。こんな描写はしたくないが、異世界モノ(イセカイ)のテンプレだから仕方がない。


だが、顔だけは絶対に違う。

彼女の顔があるべき場所には、空中に浮遊するプレートが貼り付いていた。比喩表現ではない。物理的に、黒い文字が書かれた白い長方形がそこにあったのだ。


【あとで決める】


俺は凍りついた。

その意味を理解してしまったからだ。

彼女は文字通り、擬人化された『仮素材(プレースホルダー)』そのものだった。彼女は、そう信じたいが、顔の代わりの看板を俺に向けたまま、手元の書類にサインを続けている。


唇が動いた。そこだけはレンダリングされているらしい。だが、声は聞こえない。

代わりに、彼女の頭の横にテキストボックスがポップアップした。


[ 冒険者ギルドへようこそ! 当ギルドのご利用は初めてですか? ]


嘘だろ。おい、嘘だろ。

レトロゲームの仕様かよ。「NPC(ノンプレイヤーキャラクター)」にボイスがなく、テキストを読ませるあれか。


俺が何か言う前に、目の前に半透明のインターフェースが出現した。


▶ [ はい ]

▶ [ いいえ ]

▶ [ パンは好きですか? ]

▶ [ デートしませんか? ]


下の二つは何だ。文脈が行方不明だ。

だが、選択肢を選ぶのは癪だった。老人との会話でバグを突破できたように、もしかして直接話しかければスクリプトを破壊できるんじゃないか?


「俺は……えっと」


緊張で声が震える。


「登録を、頼みます」


彼女が顔(?)を上げ、ペンを置いた。【あとで決める】の文字は変わらないが、口元が笑みの形に歪み、再び唇が動く。


[ 完璧です! 登録料は無料ですよ! ]


俺は自分の頬をつねった。痛い。まだ夢じゃない。現実にこれが起きている。


「あの……声、出せるんですか?」


思わず尋ねてしまった。


[ もちろんお話しできますよ? 聞こえていないのですか? ]


俺はこめかみを押さえた。なるほど。彼女の中では音声を発しているつもりで、聞こえない俺の方がおかしいという理屈か。

後付けで考えれば、確かにそうだ。世界は……こいつで「アドリブ」をしたんだ。


「わかった……うん。登録したいんだ」


今回は世界の勝ちだ。俺は降伏した。


[ 素晴らしい! こちらが規約です。サインの前にご一読くださいね ]


カウンターの下から分厚い本を取り出し、渡された。だが、実際に文字が書かれているのは最初の五ページだけだった。


表紙には金文字で『冒険者ギルド規約』とある。

開いた瞬間、目潰しのような光が溢れ出した。世界の真理が記された魔導書の演出だ。だがそこに書かれていたのは、俺の希死念慮を加速させる内容だった。


ページ1

『エピック・ランクシステム!』

冒険者はランクを上げるために依頼を遂行せよ。

ランク一覧:F、E、D、C、B、A、S、SS、SSS、Z、レジェンダリー、ミシック、えーっと……神レベル? あとスーパーランク(かっこいい名前を考えること)。


ページ3

ランクF:スライム狩り、薬草採取。

ランクB:ゴブリン狩り。

ランクD:低レベルダンジョンの探索。

ランクC:下級ドラゴンの討伐……


待て。

俺はページを戻した。


『ランクB:ゴブリン狩り……』


ランクCでドラゴンを殺せるのに、その上のランクBがゴブリン退治? どういうバランス調整だ?


恐怖と共に読み進める。


ページ4

昇格試験は都市によって異なる。王都では試験あり。小さな村ではクエスト5回達成。中規模都市では10回達成に加え、金貨500枚の納付。港町では戦闘による実力証明……


統一するのを諦めて、全部のアイデアを羅列した成れの果てだ。


ページ5

『クエスト報酬は公正かつバランスの取れたものを設定する』


その下の行に、フォントサイズの違う小さな文字でこうある。


『※第二稿で全部修正する』


そして最後のページ。


『最終的には面白い仕掛けのあるダンジョンを追加する。喋るドラゴンも出すかも。出さないかも。あとで決める』


俺はそっと本を閉じた。


「これ……大丈夫なのか?」


受付嬢に向けた言葉というより、独り言だった。彼女はずっと俺を見つめたまま(と仮定して)、書類仕事を片付けていた。


[ バッチリですよ! 全部読みましたか? ]


「ああ、読んだよ……」俺はうなだれた。


[ では、こちらの書類に記入をお願いします! ]


差し出されたのは一枚の紙と、細い木炭。名前、職業、年齢を書く欄と、さらにいくつかのルールが記載されている。

その紙に書かれている内容は……一言で言えば『コピペ』だ。推測ではない。文字通りそう書いてある。


1 ― アクセス

登録により、冒険者ギルドの全サービスへのアクセス権を付与する。

2 ― サービス

任意の支部にて依頼の受諾、報酬の受領、素材の取引、およびシステム内での通貨交換を行うことができる。

3 ― 身分証明

ギルドカードは身分証として機能する。紛失・破損時の再発行には追加料金が発生する。

4 ― 行動規範

ギルド施設内での戦闘行為は厳禁とする。違反者は即座にライセンス停止処分とする。

5 ― 緊急クエスト

都市または王国に対する破滅的脅威が発生した場合、ギルドは登録された全冒険者を強制的に徴集する権利を有する。


カオスの中にあって、ここだけ妙にまともだ。まあ俺の手柄じゃない。ネット上のAIに「それっぽい規約」を書かせたものをそのまま流用したからだ……第五条が少し不穏だが、選択肢はない。

誰が産んだかもわからない革を売る仕事? お断りだ。俺は引きこもりだったが、退屈のあまり死ぬために外に出たわけじゃない。


書類を書き終えてカウンターに置くと、彼女は金属製のカードを置いた。


「ここに手を置いてください」


カードが淡く発光し、俺のステータスが表示された。


> 名前: コモリ

> 性別: 男

> 種族: 人間

> 年齢: 17

> 職業: 未設定

> ランク: F


この世界での名前は『コモリ』にした。

理由は単純。前世の俺は、妹を学校に迎えに行く以外は家から出ない、正真正銘の『引きこもり』だったからだ。

俺の貧困なネーミングセンス――あるいはセンスの欠如が、そのまま名前になった。


[ 完璧です。これで手続きは完了です……ウェルカムギフトとして、こちらをお受け取りください ]


彼女はカウンターの下から、紫色の布に包まれた何かを取り出した。

開いてみると、それはパンだった。ただのパンの塊だ。


[ とても高価なものですよ! 家よりも価値があります! ]


「は?」


[ パンはこの王国で最も価値ある通貨なんです! それ一つで家が三軒買えますよ! ]


「待ってくれ……ここの通貨システム、どうなってるんだ?」


[ 簡単ですよ。物々交換(バーター)制です。パンは希少なので価値が高いのです。家? 家はいっぱいあるから安いんです。剣はパン半分、フルプレートアーマーはパン四分の一、お城はパン十個です ]


「なら……そこにパン屋があったぞ。ここに来る途中に見た」


[ パン屋のパンとこのパンを一緒にしないでください。別物です ]


理屈が破綻している。だが、彼女は大真面目だ。


「じゃあ、このパンの半分があれば……」


【 宿屋の一室を一週間レンタルできます! お買い得ですよ! 】


パン一個で家が三軒買えるのに、半分だと宿屋一週間?

この世界、算数という概念が死滅している。


「完璧だ。最高だ。アンビリーバボー……素晴らしいよ……」


俺はうわ言のように呟いた。


[ どうかしましたか? ]


「なんでもない……クエストはどこで見れる?」


[ 掲示板です! Fランクの依頼はそこに貼り出されています! ]


……


掲示板は別の部屋にあった。

中に入ると、傷だらけの荒くれ者たちが俺を睨みつけ、見えないナイフを研ぐ真似をしていた。彼らは空気椅子、いや、お尻の下にある一本の線(ワイヤーフレーム)だけに支えられて座っている。


テクスチャの読み込みエラーか、典型的なバグだ。俺はそれを見なかったことにして、三つしかないFランクの依頼を確認した。当然のように、今の俺に受注可能なものしか存在しない。


【F:クルザの森での薬草採取(10本) ― 推奨レベル50】

報酬: クルザの森の薬草10本


【F:チタンの剣で魔王を討伐せよ】

報酬: 銅貨2枚


アホか。


そして最後の一枚。


【F:ジャイアント・フロッグ2匹の討伐】

報酬: パン半分


レベル50の森で即死したくなければ、カエルを選ぶしかない。俺は依頼書を剥ぎ取り、カウンターへ戻った。


「これをやる」


[ 素晴らしい選択です! ジャイアント・フロッグは東の沼地にいますよ ]


「一つ質問が……武器か何かの支給は?」


[ 武器? なぜ武器が必要なんですか? ]


「……カエルを、狩るために」


[ あら! 装備の支給はありません。ご持参ください ]


「装備なんて持ってない」


[ なら、現地調達(アドリブ)ですね! 創造性こそが最大の武器です! ]


ああ、筋は通ってる。鍛冶屋が存在しない村で、まともな武器が手に入るはずがない。だが、どうやって素手で巨大ガエルを殺せと?


「規約に『サービスの購入が可能』と書いてあったはずだ。ギルドショップとかないのか?」


[ もちろんありますよ。ですが、ご利用は初回の依頼達成後からとなります ]


俺は彼女を見た。彼女も(たぶん)俺を見た。そして二人して依頼書を見た。


「なるほど。完璧だ。丸腰でジャイアント・フロッグ相手にアドリブか。理路整然としてやがる」


[ その意気です! 良い報告をお待ちしています! ]


俺は国宝級の価値があるパンの塊を、場違いな『スーパーのレジ袋』に放り込み、自殺ミッションへと向かうためにギルドを出た。

前世で一体どんな大罪を犯せば、こんな目に遭うというのだろうか。


---


沼地。

この世界において、比較的まともな生態系が残る数少ない場所の一つだ。ここを支配するのはジャイアント・フロッグと、その餌となる巨大昆虫たち。

だが、入り口の案内板には書かれていない『真実』があった。


俺は圧倒されていた。

匂いだ。

腐った泥水の匂いではない。村には存在しない、澄み切った清涼な空気。どこまでも澄んでいて、生き生きとした大気が満ちている。


「嘘だろ……」


奴らがいた。

目の前に。

ジャイアント・フロッグだ。


……デカい。

軽自動車ほどのサイズはある。緑色の皮膚には茶色と黄色の斑点が浮かび、巨大なギョロ目が俺を捉えた。その眼差しは、絶対的なまでに無関心だった。


だが、そんなことは問題じゃない。人間を食わない設定なのは知っている。

真の問題は、俺が想定していなかったが、論理的には至極当然な『ある事実』だった。


動かないのだ。

いや、正確には動いている。だがその速度は、カタツムリも裸足で逃げ出すほど遅い。好奇心から恐る恐る近づいてみた。食われないとしても、巨大な虫と間違えられたらたまったものではないからだ。


胸がゆっくりと上下し、呼吸をしているのは分かる。だが、足が……。

足が、ピクリとも動かない。


ふと地面を見ると、カエルが通ったあとに残る泥の跡が見えた。


『おいおい、まさか』と俺の理性が囁く。

『そのまさかだ』と論理が答える。


カエルたちは跳べないのだ。

おそらく俺が設定を書いたとき、「ジャイアント・フロッグ」と名前だけ決めて、そんな巨体がどう動くかという生体力学を無視したせいだ。結果、この世界は絶望的なアドリブで、彼らを『這って進む生物』へと進化させたらしい。


一番近くにいた個体が動こうとするのを観察した。

前足を一本、前に出す。ズルズルと体を引くずる。そしてもう一本。三十秒かけて五センチ進んだ。


俺の人生で見た中で、もっとも情けない光景だった。


これを二匹狩れと?


俺は手頃な岩――まるで誰かが用意したかのように座り心地の良い岩に腰掛け、沼地を這いずる哀れなカエルを眺めながら考えた。


カエルがこれなら、当時の俺の果てしない馬鹿さ加減によって生み出された他の巨大生物は、一体どんな悲惨なことになっているんだ?


深く考えるのはやめよう。まずは目の前の問題だ。

武器なしで、植物並みに動かない、しかし車サイズの『一応生きている』生物を、どう殺せばいい?


そもそも、なぜこれが冒険者の仕事になるんだ? こいつらは無害だし、害虫を食べてくれる益獣だ。殺す理由がどこにもない。


俺は溜め息をつき、手頃な太い木の枝を拾って、一番近くのカエルに歩み寄った。


「悪いな、相棒。お互い、情けない役回りだ」


カエルはギョロ目で俺を見たが、相変わらず無関心だった。


バシッ!


俺は枝でカエルを叩いた……何も起きない。


そう思った瞬間。


ドォォォォン!!


……


……


俺はギルドに戻っていた。

全身カエルの粘液まみれで。

いや、『まみれ』という表現では生温い。俺は頭のてっぺんからつま先まで、化学的にも物理的にもアウトな、半透明で悪臭を放つゲル状物質に包まれていた。髪から、服から、ブーツから、ボトボトと雫が垂れている。


そして肩には、枝に突き刺した二つの目玉をぶら下げていた。直に触りたくなかったので串刺しにしたのだが、サッカーボール大の目玉はまだ湿り気を帯びており、死んだ魚のような虚ろな目で俺を非難していた。


ギルドに入ると、人々がモーゼの海割りのように道を開けた。責めるつもりはない。


「何があったんだ?」


ベテラン風の冒険者が、さらに三歩後ずさりながら尋ねてきた。


「カエルです」俺は平坦な声で答えた。「爆発するんです」


「爆発?」


「ええ。棒で叩くと、文字通り爆発するんです。中身の詰まった風船みたいに……これです」

俺は自分の惨状を指差した。


男は瞬きをした。「ああ、なるほど。だから依頼に出るのか。掃除が面倒だからな」


危険だからでも、技術が必要だからでもない。ただ爆発するから汚れる、それだけだった。

俺は諦めて、真っ白な大理石の床に粘液の道を作りながら、受付へと這うように進んだ。


さっきの『プレースホルダー』はいなかった。代わりにいたのは、ちゃんと顔のある別の女性だった。同じように胸元の開いた制服だが、赤い髪をポニーテールにし、輝く緑の瞳と、楽しげな笑みを浮かべている。

ただ、まばたきの回数が極端に少なくて不気味だ。


そして前の奴と違い、ちゃんと声が聞こえる。


「こんにちは!」背筋が凍るほど明るい声だ。「依頼は完了しましたか?」


「ああ」


ボトッ。


俺はカウンターに二つの目玉を置いた。


「カエル二匹。死亡確認。爆発済み。これが証拠だ」


彼女は目玉を見た。俺を見た。そしてもう一度目玉を見た。


「ふむ。オッケーです」


頷いた。それだけだ。


俺は待った。

彼女は笑顔のまま、まばたきもせずに俺を見つめ続けている。


「……で?」


「……?」


「パンだ。俺のパン半分……」


「なんのパンですか?」


俺は彼女を凝視した。


「パンだよ。報酬だ。ジャイアント・フロッグ討伐の」


「ああ、パンはシステムに登録された冒険者様用です。あなたは登録されていませんから」


脳内で何かがブチ切れる音がした。


「登録されてないってどういうことだ?」

俺は冒険者カードをカウンターに叩きつけた。


「うーん……変な子ですねぇ」

彼女は小鳥のように首を傾げた。

「ほら、名字を教えてください。登録しますから。そうすれば、次の依頼からパンがもらえますよ」


「待て。待て待て待て……」

俺はこめかみを押さえた。ヌルヌルとしたカエル汁が額を伝う。

「じゃあ、あのカエル狩りは何だったんだ? 試験か?」


「正解! ギルドメンバーになるには、メンバー用クエストを達成する必要があります。論理的(ロジカル)でしょう?」


「でも……メンバー用クエストを受けるには、まずメンバーにならないと……」

その循環論法に、俺の理性が崩壊していくのを感じた。


「その通りです」


「じゃあ……どうやって登録するんだよ?」


「メンバー用クエストを達成すればいいんです。論理的(ロジカル)でしょう?」

彼女は「こいつバカなのかしら」という目で俺を見た。「本当に、変わった子ですね」


俺が? 俺が変なのか?

まあ……彼女の視点では、存在しない論理を疑う俺の方が狂人なのかもしれない。


「わかったよ。俺の名字は……」


一瞬考えた。引きこもり……コモリ……何かそれっぽい名前……そうだ!


「コモリ・アキヒコだ」


「アキヒコ?」彼女は言葉の響きを確認するように繰り返した。「了解です」


突然、天井から風船が降ってきた。


「ようこそ、大いなる勇者様! これにてコモリ様は、正式に冒険者ギルドの一員です! 良き冒険を!」


「は……? 大いなる勇者……?」


ああ、そうか。プロットに書いた『転生勇者』は俺のことだったのか。実に理路整然としてやがる。

俺は必死に平静を装った。


「最高だ。完璧だよ。……風呂はあるか? 俺は……」

自分の悲惨な状態を大雑把に指差した。

「こいつをどうにかしたいんだ」


「はい! 左の廊下の奥にシャワーがありますよ!」


「シャワー?」俺は目をぱちくりさせた。「シャワーが機能するのか? この中世風世界で?」


「もちろんです! ハンドルを回せば魔法のお湯が出ます。ご存知ありませんでした?」


人々が掘っ立て小屋に住み、パンが城より高い世界に、魔法の給湯システム完備のシャワーがある。

頭に浮かんだ言葉はただ一つ。


『俺、どんな設定書いたんだよ』


「ああ、利用料はパン8分の1個です。もしくはパン4分の1個で、二年間使い放題のサブスクリプションも可能です」


俺は手元にある、国宝級のパンの欠片を見た。

そして、自分の生物学的緊急事態(ヘドロまみれ)を見た。


「ほらよ。4分の1だ。二年契約で頼む」


渡す前に、念のため確認した。


「他には? 何かついてくるのか?」


「はい、大したことではありませんが。レンタルバスルームにはシャワーの他に、バスタブ、水洗トイレ、ヘアケア用品一式――石鹸は別売りですが――それとタオルが完備されています。あと、初回契約時には冒険用の着替えもサービスされますよ」


「それだけか?」


俺はそれ以上ツッコむのを諦めた。だが、衛生面の心配が消えたことだけは素直に喜ぶべきだろう。


三階にある浴室は、意味不明なほど豪華だった。

磨き上げられたセラミックタイル。ピカピカの銅配管。座り心地の良さそうなトイレは、間違いなく俺の『玉座』になるだろう。シャワーのハンドルをひねると、完璧な水圧でお湯が噴き出した。


棚にはフワフワのタオル。ラベンダーの香りがする石鹸。待て、石鹸は別売りじゃなかったのか? まあいい、あるなら使うまでだ。そして一点の曇りもない巨大な鏡。


シャワーの横には清潔な服が用意されていた。黒い布のズボン、白いリネンのシャツ、そして軽い革のジャケット。サイズは俺の身長――百六十六センチにぴったりだ。


この壊れたギルドには五つ星ホテルのスパがあり、村人は家畜もいないのに革を売って生きている。


「え……待てよ」


鏡に近づいた瞬間、俺は自分の異変に気づいた。


黒髪。いかにも主人公っぽい髪型が額にかかっている。瞳は空のような青色。体型は細身だが引き締まっており、肌は滑らかで透き通るようだった。端的に言えば……美少年だ。


「これが……俺?」


顎に触れ、頬を撫で、髪をすく。

別人だ。

そういえば、眼鏡をかけていないのに視界がクリアだ。どうやら俺は、自分自身の『改良版(アップデートパッチ)』を手に入れたらしい。


……


異世界での初風呂。その体験を一言で言えば、『苦行』だった。


俺は二十分以上、親の仇のように体を洗い続けた。あの忌々しい粘液を一滴たりとも残したくなかったからだ。ようやく汚れを落とし切り、恐る恐る新しい服に袖を通す。チクチクしたり擦れたりすることを覚悟していたが、意外にも着心地は悪くない。

俺はようやく人権を取り戻した気分で、ロビーへと戻った。


まだ濡れている髪を拭いながら、大きく息を吐く。

さて、次はまともな依頼を探そう。

掲示板の前に立つと、案の定、クエストリストは更新(リロード)されていた。


【F:『永遠の死の森(エターナル・デス・フォレスト)』へのキャラバン護衛】

報酬:パン1個


またそのネーミングセンスかよ。


【F:呪われた地下室の異音調査】

報酬:パン4分の3個


【F:村長の庭での花摘み】

報酬:パン2個


パン2個……? 花摘みで……?

家が六軒買える額だぞ?


俺は反射的に花摘みの依頼書をむしり取った。

ようやく死なずに済みそうな依頼だ。しかも報酬は破格。俺は現世の利益に目がくらんだ幸福感を胸に、カウンターへと戻り、依頼書を置いた。


「これを頼む」


彼女はゆっくりと瞬きをした。


「ダメです」


「……ダメ?」


この期に及んで、まだ何かあるのか。


「パーティを組んでいないと、依頼は受注できません。ルールですから」


俺は彼女を真似て、ゆっくりと瞬きをした。


「は?」


「規約は絶対です。パーティなしでの受注は不可能です」


「……」


「最低二名。それが仕様です」


「いや、待ってくれ……さっき依頼をこなしたばかりだぞ。一人で。あの爆発するカエルのやつだ。あの時は何も言われなかったじゃないか」


「あれは登録用のチュートリアル・クエストですから。正規の依頼を受けるには、パーティが必須です」


「規約の本には、そんなこと一文字も書いてなかったぞ」


「書いてませんでした? あら、奇遇ですねえ」


「奇遇ですませるなよ……」


俺は依頼書を握りしめたまま立ち尽くした。残っていたわずかな理性が、蒸発して消えていく。


「わかった。……で、そのパーティとやらはどこで見つかるんだ?」


「募集掲示板ならあちらです」


彼女が指差したのは、ロビーの壁際だ。

誓ってもいいが、さっきまであんな場所に壁なんてなかった。


「……何も貼ってないぞ」


「なら、あなたが貼るんです」


彼女は俺に紙切れと木炭を渡した。

俺は観念して、殴り書きした。


『パーティメンバー募集。誰でもいい。頼む。マジで誰でもいい(文字通り)』


正直に言えば、他人と関わりたくなんかない。ましてや新しいグループを作るなんて御免だ。

だが、他に選択肢があるか?

これは「花を摘むだけ」の簡単なお仕事で、報酬は『パン2個(家六軒分)』だ。

このオファーを断るバカはいない。


……


あれから……どれくらい経った?

二十分? それとも一時間か?

テーブルの上の日時計は、嫌がらせのように進みが遅い。そして誰も――そう、文字通り誰一人として、あのドアを開けようとしない。たまに入ってくるのは、トイレを借りに来た老人だけ。それ以外は何もなし。


ちなみにこの日時計、上部にビー玉サイズの『ミニ太陽』が浮いている。熱こそ発しないが、受付嬢曰く「直視すると眼球が乾燥してダメージを受ける」らしい。


……バカなのか?

太陽の力をビー玉サイズに圧縮して、やることが「外光のシミュレーション」か? それとも、屋内で時間を知るためだけに、本物の太陽を模倣する魔法をわざわざ開発したとでもいうのか?


何より重要なツッコミどころがある。

普通に歯車式の時計を作れよ。

そっちの方がどう考えても簡単だろうが。


俺が諦めて、あの恥ずかしい募集の張り紙を剥がそうとした、その時だ。


バーァァァァァン!!


ギルドの扉が、無駄に劇的な音を立てて左右に開け放たれた。同時に、どこからともなく不自然な強風が室内に吹き込んでくる。


そこから、二人の女が入ってきた。


一人は、身長百五十センチあるかないかといったところか。 プラチナブロンドの髪を左右で結んだ、躍動感のあるツインテール。 白と空色を基調とした、フリルのついた軽やかな魔道衣(ローブ)を纏い、肩にはフード付きの短いケープ。腰に巻いた革ベルトには大ぶりな青い花の飾りがあしらわれ、スカートの裾には雲のような模様が描かれている。 彼女の背丈ほどもある杖を握りしめ、その瞳はエメラルド、あるいはそれに極めて近い色をしていた。


もう一人は、背の高い女だった。百八十センチはあるだろう。腰まで届く長い黒髪。この辺りの騎士が着ているものとは一線を画す、磨き上げられた鋼のように輝く銀のプレートアーマー。そして、赤い瞳。広い肩幅に、隙のない姿勢。腰には三本もの剣を帯びている。装備の重量だけで、隣のチビ魔術師の体重を超えているのは確実だ。


「我が名はフユネ! 風属性の……風魔法使い!」

彼女はそこで溜めた。

「……否! 『天災魔法(カタストロフィ)』の使い手なり!」


彼女がビシッとポーズを決めると、今の今まで吹いていた風が、彼女の髪とローブをドラマチックに翻した。

……自演かよ。


そして、もう一人の女は。


「ユミヅキ。戦士だ」


言ったのはそれだけだった。


その名前を聞いた瞬間、俺はすべてを理解した。

そして確信した。


これは、厄介事の予感しかしない、と。

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