第2話 4章~7章
第四章:現像液とアルコール
「サークルに入れば、大学生活は完成する」 友人の言葉は、あながち間違いではなかったらしい。
写真部の部室は、僕の新しい居場所になった。 新入生歓迎コンパ。 居酒屋の座敷で、僕は洗礼を受けた。コップ一杯のビール。それだけで視界が回り、天井が歪んだ。 「男は飲まなきゃ強くならないぞ!」 先輩たちの声が遠くで響く。アルハラなんて言葉がまだ生まれていなかった時代の、荒っぽくも温かい通過儀礼。僕はトイレでうずくまりながら、それでも不思議と悪い気分ではなかった。
けれど、そこに彼女はいなかった。 高橋みきこ。 あの日、西日の中で見た彼女は、まるで幻だったかのように部室には現れない。 「みきこ? ああ、あいつは特別だから」 先輩たちが語る彼女は、僕の想像よりもずっと遠い場所にいた。大学四年生。実家は会社経営の資産家。英語が堪能で、学生写真界ではすでに名の知れた存在。 夜、誰もいない部室で一人、黙々とプリントを焼いているという噂。 (住む世界が、違うんだ) 暗室に残された酢酸の匂いだけが、彼女の実存を証明していた。
日々の喧騒の中で、あの一目惚れのような鮮烈な感情は、古い写真のように少しずつ色褪せ始めていた。
第五章:夜明けのイカ刺し
六月の週末。 「洋介、行くぞ!」 断る隙も与えられず、僕はワンボックスカーの後部座席に押し込まれていた。 発案者はOBの竹澤さん。そして強引に僕を誘ったのは、二年生の西山さんだ。 西山さんは不思議な人だった。専門学校を二つも卒業してから大学に入った年長者で、分厚い眼鏡の奥の瞳は常に何かのキャラクターを追っている。実家が太く、働かずに高級車を乗り回す彼には、世俗のルールが通用しない。
「次は、みきこちゃんを迎えに行くから」 ハンドルを握る竹澤さんの言葉に、僕は耳を疑った。 来るの? あの人が?
車が止まったのは、僕のアパートから車で五分もかからない場所にある立派な一軒家だった。 (こんなに近くに住んでいたのか) ドアが開き、彼女が乗り込んでくる。 僕は息をするのも忘れて、その姿を目で追った。
一行は七人。小樽で「魔女」のようなオーラを纏う四年生の真野さんを拾い、車は夜の国道を南へとひた走る。 僕の隣には、三年生の美代子さんが座った。 「洋介くん、緊張してる?」 美代子さんは不思議な包容力のある人で、斜め前に座るみきこさんとも仲が良いらしい。「みきちゃん」「みよちゃん」と呼び合う二人の会話に、僕も少しずつ混ぜてもらう。
「それにしても洋介くん、その服……」 みきこさんが、不意に後ろを振り返って言った。 「え?」 「なんか、すごく真面目だね。高校生みたい」 悪気のない、けれど鋭利なナイフのような一言。 僕は精一杯のおしゃれのつもりで着てきた一張羅の裾を、思わず握りしめた。 ああ、そうか。 彼女の着ているラフなジャケットは、雑誌から抜け出してきたように洗練されている。僕の服からは、隠しきれない「田舎」が滲み出ているのだ。 恥ずかしさで、耳が熱くなった。
函館に着いたのは、空が白み始めた午前四時だった。 朝市の食堂。 テーブルに並んだイカの刺身や海鮮丼を見て、部員たちが歓声を上げる。 「うわっ、透き通ってる!」 「すげぇ、動いてるぞ!」 彼らのはしゃぎようを、僕は少し冷めた目で見ていた。 母方の祖父は漁師だ。この程度の海鮮なら、子供の頃から嫌というほど食べてきた。 (味なら、僕の方が知っている) 服を笑われた悔しさを、そんなちっぽけな優越感で埋め合わせる。僕は黙って、甘いイカを噛み締めた。
帰りの車中。 「ねえ、番号教えてよ」 携帯電話を取り出したみきこさんが、僕に向かって言った。 まだ液晶も小さく、通話機能くらいしかまともに使えない黒い端末。 赤外線通信もまだない時代、僕は震える指で、彼女の番号をプッシュした。 090……。 その十桁の数字が、僕と彼女を繋ぐ唯一の細い糸になった。
第六章:地下鉄の迷宮とカプチーノ
旅行から数日後。 講義を終えた僕の携帯が、ポケットの中で短く震えた。 ディスプレイの表示。「高橋みきこ」。 心臓が早鐘を打つ。 「もしもし」 『あ、洋介くん? 今度さ、一緒に写真撮りに行かない?』 それは、あまりにも唐突で、残酷なほど気軽な誘いだった。 部活の一環だろう。そう自分に言い聞かせながらも、僕の声は上擦っていたに違いない。
待ち合わせは地下鉄の駅だった。 「こっちよ」 彼女は迷いがない。 複雑に入り組んだ札幌の地下鉄網を、彼女は自分の庭のように歩いていく。自動改札を抜ける背中があまりにも鮮やかで、僕は切符を握りしめたまま、必死にその後ろを追いかけた。 旭川には地下鉄なんてない。バスと自転車しか知らなかった僕にとって、この地下迷宮を涼しい顔で進む彼女は、やはり違う世界の住人に見えた。
「ちょっと休憩しようか」 彼女が入ったのは、お洒落なカフェだった。 木のテーブル。見たこともないメニュー。 僕はキョロキョロと視線を彷徨わせ、カップの持ち方さえ分からずにドギマギしていた。
「洋介くんってさ」 カプチーノの泡をスプーンですくいながら、彼女がくすりと笑った。 「服装も、所作も、全部ダサいよね」 「え……」 「なんかこう、垢抜けないっていうか。田舎の子って感じ」 彼女の瞳に、悪意はない。あるのは、残酷なまでの無邪気さと、事実を指摘するだけのドライな感性。 それが余計に、僕を打ちのめした。
カメラのファインダー越しなら、世界は平等だと思っていた。 けれど、レンズを下ろした現実の僕たちは、あまりにも不釣り合いだ。 目の前にいる美しい人。 年下の、田舎者の僕。 カプチーノの苦味が、喉の奥にへばりついて離れなかった。
第七章:暗室の魔法と嫉妬
札幌の短い夏が始まろうとしていた。 あの日以来、高橋みきことは頻繁に撮影に行くようになった。ある時は二人で、ある時は他の部員も交えて。 ファインダーを覗いている間だけは、僕は彼女と対等でいられた。 けれど、撮影を終えてカメラを下ろした瞬間、また「都会のお嬢様」と「田舎のコンプレックス」という壁が立ちはだかる。
撮影を重ねれば、当然フィルムが溜まる。 「洋介、まだ現像してないのか?」 先輩に言われるまでもなく、分かっていた。けれど、僕は踏ん切りがつかずにいた。 「みきこちゃんに習いなよ。あの子が一番上手いから」 誰もがそう言う。それが正解なのも分かっている。 でも、だからこそ嫌だった。 地下鉄の乗り方も、コーヒーの飲み方も、服のセンスも。これ以上、彼女に「教えられる側」に回りたくなかった。彼女の完璧な手つきの横で、不器用な自分の手を晒したくなかった。
救世主が現れたのは、そんな時だった。 「洋介くん、これ聴いたことある?」 大森さん。三年生の女性の先輩だ。 いつも古着のバンドTシャツをラフに着こなし、ショートカットが似合うボーイッシュな彼女は、音楽の話で僕と波長が合った。 「大森さん、現像教えてください」 僕が頼み込むと、彼女は面白そうに目を細めて笑った。 「いいよ。私、みきこちゃんほど上手くないけど、一通りなら教えられるし」
初めて入る暗室は、密室だった。 二人きりの狭い空間。鼻をつく酢酸の酸っぱい匂い。赤いセーフライトの心許ない灯りが、大森さんの横顔をぼんやりと照らしている。 「いい? ここで時間を計って……」 大森さんの指導の下、手探りでリールにフィルムを巻き、現像液に浸す。 女性と暗闇にいるというのに、不思議と緊張はなかった。彼女の教え方はサバサバとしていて、心地よかったからだ。
数分後、定着液から引き上げたネガフィルムを見て、僕は息を飲んだ。 写っている。 世界が、白と黒の階調(グラデーション)に置き換わって、そこに定着している。
引き伸ばし機にネガをセットし、ルーペで像を覗き込む。 粒子の荒れ。光の滲み。 (親父は、これを見ていたのか) かつて自宅の納戸に籠もっていた父の背中が、急に近く感じられた。この粒子の海に、父もまた魅入られていたのだ。
それからの僕は、憑かれたように暗室に通った。 液体の中で像が浮かび上がる魔法。その瞬間の高揚感だけが、僕の劣等感を忘れさせてくれた。
ある日、洗い終わったネガをロープに干していると、ドアが開いた。 みきこだった。 彼女は僕が干しているフィルムをじっと見つめ、それから僕を見た。 「洋介くん、現像、誰に習ったの?」 声のトーンが、いつもより低い。 「大森さんです。ロックの話で盛り上がって、その流れで」 僕が言い訳がましく答えると、彼女はきゅっと唇を結んだ。 その瞳が一瞬、揺れたように見えた。 「……私じゃ、だめだったんだ」 「え?」 「洋介くんには、私が教えたかった」 彼女はそれだけ言い捨てると、逃げるように部室を出て行ってしまった。 残された僕は、吊るされたネガと共に呆然と立ち尽くすしかない。 (え……?) 単に技術的なことではなく、彼女が「自分以外の女性」に教わったことに対して傷ついたのだということに、当時の僕はまだ気づけずにいた。 僕はバツの悪さに、頭をかいた。
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言葉は恋で写真は愛だ @tenpurawasio
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