第36話(最終話)
体育館のざわめきが、方波見の胸の奥に微かに響く。
夏休み前の全校集会は、普段の集会よりも特別な空気に包まれていた。校長が壇上で話す声が、緊張と期待の混ざった空気に溶けてゆく。
「今年度の全国高校生絵画コンクールにおいて、最優秀賞を受賞したのは…」
校長の声に、会場が静まり返る。方波見の名前が呼ばれた瞬間、空気が一瞬止まったように感じられた。
「三年E組、方波見紬さん。壇上にお願いします」
胸が高鳴る。方波見はゆっくりと立ち上がり、一歩ずつ踏みしめて舞台へと向かう。体育館の天井から差し込む光が、微かに背中を照らしていた。
スクリーンに映し出されたのは、彼女自身の自画像だ。
目を閉じ、透き通る水色の世界に身を浸す姿――その静謐で柔らかな空気は、鑑賞者の心を自然と引き込む。
四年前、幸野舞美が途中まで描いた肖像画に触発され、方波見はその記憶の残滓を頼りに、自らの存在と感情を画面に表現しきったのだった。
色鮮やかでありながら、どこか内面の静けさを映す筆致に、生徒たちは思わずどよめく。
周囲のざわめきが波のように広がり、体育館全体を揺らした。
そのざわめきの中心にいるのは自分だ――そう意識した瞬間、方波見の胸はきゅっと縮むように痛んだ。
壇上へ向かう途中、視線が一斉に突き刺さる。耳に届くのは小声の囁きと、押し殺した驚きの息。
足取りは自然に速くも遅くもならないよう、細心の注意を払って整えた。だが、指先には冷たい汗がにじみ、心臓の鼓動がやけに大きく響く。
壇の中央に近づくにつれ、緊張感が一層濃くなる。体育館のざわつきと、方波見自身の胸の鼓動が、不思議に重なり合っていた。
その時、校長が柔らかく声をかける。
「方波見さん、よろしければ、今のお気持ちを聞かせてください」
方波見は深く息を吸い、体育館全体を見渡した後、マイクに向かってゆっくりと口を開く。
「私は……正直な話、今まで他人と交流することに対して苦手意識がありました……でも、こうして皆さんの前に立つことができたのは、私一人の力によるものではありません。支えてくれた方々のおかげです」
視線は壇上から少しずつ仲間たちの顔に移る。森、東村、都築――それぞれが、微笑み、頷いていた。
「自分一人では何もできないと、無力感に打ちひしがれた日や、全てが嫌になってしまう瞬間もありました。でも、信じあえる存在がいてくれたから……そういう繋がりだけは失わずにいられたから、私は強くなれました」
方波見の声は、静かだが確かな力を帯びていた。壇上の光が、彼女の背中を柔らかく照らす。
「これからも、誰かの胸に残るような作品を作り続けます。本当に、ありがとうございました」
言葉の最後に小さく頭を下げると、体育館中から大きな拍手が返ってきた。
方波見の胸には、孤独だった日々の重みが解け、希望と感謝の温もりだけが残る。
「おめでとう!」
誰かが叫ぶ声に、方波見はふと顔を向けた。常川だ。彼は両手を大きく振り、満面の笑みで声を張り上げている。
東村も、満面の笑みで、壇上に向かって大きく手を振っていた。
森は目を細め、どこか誇らしげに微笑んでいる。
都築は、やや大きめの拍手で、確かな温かさを添えて祝福していた。
清水は、感慨深さで満ちた表情で方波見のことを見ている。
蓮井は笑っているのか無表情なのかわからない。何とも言えない表情で静かに拍手を重ねる。
ふと視線を巡らせると、美術部の面々もこちらに手を振っていた。絵筆を持つときと同じ無邪気な笑顔で、口をぱくぱくと動かし――「おめでとう」と言っているのがはっきりと伝わってくる。
方波見は胸に手を当て、深く息を吸い込む。胸の奥にじんわりと広がる温もり。孤独だったあの日々、夢の世界の朧げな記憶、新しく絆が生まれたあの瞬間――すべてが一つの光として、今ここに繋がる。
ふと視線を巡らせると、拍手する生徒の中に、幸野の姿があるように見えた。全校生徒の中の一人として、こちらを見つめ、そっと手を合わせてくれている――そんな幻。胸の奥がぎゅっと温かくなる。
(マイミ―……見てくれてるかな。私、ようやく変われたよ。遅くなっちゃってごめんね……今までずっと、私のこと見守ってくれてありがとうね)
幸野の幻は、静かに席を立ち、中央の花道を通って出口へ向かう。その背中は軽やかで、まるで祝福の旋律に乗って歩くかのようだ。
彼女は出口の直前でふと振り返り、方波見に向かって軽く手を振る――そしてそのまま、夏の光の中へと消えていった。
胸の奥に、温かさと微かな切なさが溢れる。方波見はその余韻に微笑みを返し、再び前を見据えた。
視線の先には、拍手する全校生徒の姿。誰もが彼女の存在を認め、祝福してくれている。
彼女の短いスピーチは、ただの謝辞や表彰の言葉ではなく、自分自身の成長と仲間への感謝、そして未来への覚悟を示すものになっていた。
光が体育館の窓から差し込み、絵と彼女の姿を照らす。まるで世界そのものが祝福しているかのように。方波見は静かに笑みを浮かべ、もう一度深々とお辞儀をした。
胸の奥の孤独は消え、代わりに確かな希望と温もりが広がる。
方波見は一歩、舞台の端に向かって進みながら、心の中でそっとつぶやいた。
(ありがとう……私、ここにいていいんだね)
銀色の光の余韻のように、拍手はしばらく続く。方波見の瞳に映るのは、仲間たちの笑顔と、再び未来へと踏み出す自分の姿だった。
体育館の空気は、まだ祝福の余韻で満ちていたが、壇上を降りた方波見が席に戻ると、校長の合図とともに、吹奏楽部の奏でる『祝典行進曲』が高らかに響き始めた。軽快でありながら晴れやかな旋律が、会場をゆるやかに包み込む。
萩架根市立大学附属高校では、集会が終わると、吹奏楽部の演奏に合わせ、三年生から各クラスごとに規律正しく退場していく――そんな独特の習わしがあった。
各クラスが順に立ち上がり、行進曲のリズムに合わせて整然と退場していく。その足音さえも祝典の一部のように重なり合い、体育館全体がひとつの舞台のように感じられた。
方波見は胸に手を当て、音楽に導かれるように歩き出す。窓から差し込む夏の光が床に広がり、その上を仲間たちと並んで進んでいくたび、胸の奥の孤独は遠ざかり、確かな温もりが広がっていった。
吹奏楽の音に包まれながら、ふと視線を上げる。二階席に、楽器を抱えた都築の姿が見えた。彼女はオーボエを奏でながら、ほんの一瞬だけ目を上げる。音を途切れさせることなく、けれど確かに方波見を見つめ、小さく目元をほころばせた。
方波見もまた、歩みを乱さぬようにしながら、ほんの僅かに微笑みを返す。
その短い合図は、言葉にしなくても互いに伝わるものだった。――「おめでとう」と「ありがとう」だ。
ふと横を見れば、常川が「よかったな!」と口を動かし、笑顔で親指を立てている。
森は照れくさそうに、少し目を逸らしながらも、方波見を気にかけていた。
東村は楽団の音色に耳を傾けつつ、方波見には穏やかな微笑を向ける。
清水は、静かに微笑みながら手を合わせ、心からの祝福を送るように拍手していた。
花道を歩く方波見は、一年生の列の中にいる蓮井と、ふいに目が合う。
方波見はふと、普段の自分なら絶対にしないことを、してみたくなった。
衝動に任せて、ペロッと舌を出す。
蓮井は眼鏡をクイッと持ち上げ、ほんの一瞬だけ、満足げに笑った。
『祝典行進曲』は高らかに響き、まるで新しい門出を告げるかのよう。
方波見は前を見据えている。
彼女は、もう“名前のない魔女”ではない。
そこにいるのは、仲間たちに祝福され、音楽に乗って未来へと進む一人の少女だった。
音の波に包まれ、体育館の外の陽炎の中へ飛び出していく彼女の背に、真昼の光が短い影を落としている。
(了)
名前のない魔女は、祝福を受けられない 亞央軌イセ @ise123
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