第35話
放課後になる度に、美術部の部室へと足を運び、個人作品に向き合う毎日。
事件以前には、描けなかった作品――自分がどこにいて何をしていたのか、何を考え、どんなことを感じていたのかすら思い出せない空白の四年間。
巷で自分が「四年前と何一つ変わらない状態で見つかった奇妙な女子生徒」と噂されていることは知っていた。だが、創作の手を止めることはできない。
キャンバスの前に座り、筆を握るたびに、その曖昧で空虚な時間の感覚を、色や線に託して吐き出す。
過去と現在の狭間で揺れる胸のざわめき、孤独と不安。もう会えなくなってしまった友達の面影。新しい絆と、ほんのわずかな温もり――すべてを画面に投影する。
描き進めるうちに、色は徐々に鮮やかさを取り戻し、線は力強さを帯びていく。空白の時間が、少しずつ手の中で形になっていった。
完成した作品は、全国的なコンクールに応募できる水準に仕上がっていた――。
ある日、方波見が職員室の前を通ると、窓越しに”ボランティア部”の三人が並んで立っているのが見えた。
蓮井は腕を組み、少し俯き気味。常川は相変わらず口元に笑みを浮かべ、清水は整然と立ったまま、一言も発さずに方波見を見つめている。
三人は互いに目配せをし、短く会話を交わす。方波見がそっと歩みを止めると、会話を中断し、三人は一斉に視線を逸らす。まるで彼女に、見ていることを悟られまいとしているような――その挙動に、胸の奥がぎゅっと締め付けられる。
帰り道の緑道でも、偶然か必然か、三人に出くわす。
誰かの自転車の音が風に混ざり、葉を揺らす。方波見は肩にかけた鞄を握りしめ、ふと背後に目を向けると、角を曲がったところに三人が立っていた。近すぎず、遠すぎず、確かにこちらを見ている。常川が手を振ろうと指先をわずかに動かす。蓮井は小さく会釈だけをし、清水は静かに頷いた。
方波見はその場に立ち尽くす。胸の内で、言葉にならない感覚が膨らんでいく。
知らないはずの三人が、なぜこんなにも頻繁に自分を見つめているのか。なぜ、どこかで見たような気がするのか。
夜、ベッドに横たわりながら、方波見は例の三人のことを反芻する。
学校に復帰して以来、廊下の陰、図書館の書架、体育館の隅――さまざまな場所で彼らを見かけていた。
(最初はただの気のせいかと思ったけど……さすがに、何か意図があるのかもしれない)
胸はまだざわつく。けれど、そのざわつきの奥には、なぜか温かい余韻もある。監視されているわけではなく、見守られているような奇妙な安心感。
方波見は小さく息を吐いて、瞼を閉じる。
明日もまた、彼らはどこかから自分を見ているかもしれない――それが怖いのか、それとも、少しだけ心強いのか、まだはっきりとは言えなかった。
だが彼女は、自分の中の何かが静かにほころび始めているのを、確かに感じていた。
翌日も、放課後の職員室前の廊下で、方波見は三人と偶然出くわした。
鉢合わせた三人は、はっとしたように目を見開き、言葉もなく互いに視線を交わすと、その場を離れようと身を翻した。
方波見は少し息を整え、胸のざわつきを感じながら、そっと声をかけた。
「……あの、何か御用ですか?」
三人は一瞬顔を見合わせ、わずかに間を置く。
最初に口を開いたのは常川だった。
「バレてるよな……監視してごめん。あー、いや、元気かなって」
その軽い調子に、方波見はわずかに瞬きをする。
「……まぁ、はい。皆さんは、もしかしてボランティア部の?」
探るように問いかけると、清水が一歩前に出て、穏やかな声で答えた。
「ええ、そうよ。……方波見さん、あなた、“夢”の中で見たこと、覚えてる?」
方波見は少し眉をひそめ、首を傾げる。胸の奥でざわつきが広がる。
”夢”……? その言葉だけが、頭の中に靄のように広がり、漠然とした既視感と、言葉にならない感覚が交錯する。
「”夢”の中……ですか? ……覚えてないです」
清水は一瞬だけ目を細め、すぐに表情を和らげた。
「ならいいの。詮索するようで申し訳なかったわ。これからはもうしない。それじゃ、元気でね」
踵を返そうとした清水の背中を見つめながら、方波見は小さく声を漏らす。
「もしかして……『生まれ変われたら、友達になってほしい』って言ったことですか?」
常川の動きが止まった。
「え、なぜそれを……?」
方波見は、胸の奥のざわめきに突き動かされるように言葉を継いだ。
「やっぱり……三人だったんだね。“夢”の中で、私を助けてくれたのは」
その瞬間、空気が張り詰めた。
常川は驚いたまま口を開けたまま固まり、清水は目を伏せる。蓮井だけが、じっと方波見を見据えている。
「……そうだとしたら、どうする?」
蓮井の声は低く、探るようだった。
方波見はほんの一瞬だけ言葉に詰まったが、唇をきゅっと結び、震える声で答えた。
「みんなのことをずっと探していた……約束通り、私と友達になってほしい――三人と仲良くなれるのなら、私、ボランティア部に入るわ」
その願いは、ずっと胸に秘めていた渇望のように、自然とこぼれ落ちる。
しかし、蓮井は小さく首を横に振った。
「それはできない」
短い拒絶の言葉が、廊下の静けさに冷たく響く。
方波見の心臓が強く跳ね、胸の奥に鋭い痛みが広がった。
「僕たちはこれからも、この街の暗部と向き合い続けなければならない。無関係な人間を危険に晒すリスクは避けたいんだよ」
蓮井の言葉は、冷静に聞こえるが、どこか自分に言い聞かせるようでもあった。
方波見は必死に言葉を探す。
「……私だって、もう“無関係”じゃない。能力だって、きっとまだ――」
「もう使えないさ」
蓮井は遮り、視線を逸らさずに続けた。
「君は四年の時を経て、ようやくこの世界に戻ってきた。君が今ここにいて、生きているということは、本当の意味で“生まれ変わり”には至っていない。まだ、約束を果たす条件が揃っていないんだ」
方波見の唇から小さな息が漏れる。
蓮井は静かに結論を告げた。
「いいかい? 君がこれから生きなければならないのは、この現実だ。今は、全てが煌めいて見えて、温かいもののように思える時期かもしれない。けれど本質的には、四年前と何一つ変わっちゃいない。君の幼馴染を奪ったのも、君をいないもののように扱って無下にしたのも、同じこの世界なんだ」
「おい、蓮井!」
常川に咎められた蓮井は、ほんのわずかに目を伏せ、それからまた方波見を見た。
「ようやく"普通"に戻れたんだ。僕らには関わらない方がいい。君も、森も東村も、目の前のことに対して、ひたすら愚直に取り組み続けるべきなんだ……だが、それでも敢えて、君の言った“約束”に従うのであれば……」
一拍置いて、低い声が続いた。
「友達になるのは、”来世”で、だ」
廊下に沈黙が落ちる。
方波見は言葉を失い、ただ三人を見つめていた。
やがて蓮井は踵を返し、迷いのない足取りで歩き出す。なぜか、かつてないほど穏やかな表情を浮かべて。
「蓮井! 待てよ!」
常川が声を荒げ、慌ててその背中を追う。
「……それじゃあ、三人はこれからもずっと、誰にも知られることなく、陰で戦い続けるしかないというの……?」
方波見の視線も二人を追いかける。
横に残った清水が、そっと彼女の方へ向き直った。
「心配してくれてありがとう……でも悪く思わないでね。今のは、あなたのことを思っての言葉……私たちは大丈夫。だから安心して」
その声は静かで温かかったが、触れようとすれば霧のようにほどけてしまう距離を含んでいた。
清水もすぐに歩みを返し、二人の後を追っていった。
残された廊下に、方波見だけが立ち尽くす。胸の奥に残響する言葉と、行き場をなくした想いを抱えながら。
「来世で――」
その言葉が、胸の奥で何度も反響して、痛みに近い熱を残していた。
突き放されたはずなのに、不思議と憎しみや怒りは湧いてこない。
むしろあれは、言葉足らずな蓮井からの「今の人生を懸命に、全力で生きろ」というメッセージだったのかもしれないと、方波見は受け止めた。
たとえ約束が果たされなくとも、自分はこの世界に戻ってきた。ならば、ここで息をする意味を、探し続けなければならない。
方波見は一人、頭の中で過去を整理した。
孤独だった日々や、夢の世界での戦いの記憶を胸に刻み、仲間や支えてくれる人々への感謝を静かに噛みしめる。
こうして彼女は、完成させた作品をコンクールに応募した。
たとえ振り出しに戻ってしまっても、自分はまた歩き出せるのだという強い意志が宿っていた。
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