第34話

 初夏の日差しが降り注ぐ朝、方波見紬は三年E組の教室に足を踏み入れた。

 失踪前と同じ教室。けれども、机の配置や壁の掲示物がかつてとは違う。そんな空間は、どこか時間の歪みを感じさせた。

 クラスメイトたちは、誰もが落ち着いた様子で彼女を迎える。

 「行方不明者が戻った」というだけの認識で、あのポルターガイスト事件のことは誰一人覚えていない。

 方波見は、人の視線を気にしつつも、隣と少し距離を置いて席に着いた。

 机の上に伸びる影を見つめるが、胸の奥がそわそわして落ち着かない。


 放課後、方波見は鞄を持って机を離れ、廊下を歩く。

 自然と足が美術部の部室へと向かっていた。

 重たい木の扉を押し開けると、中から絵の具と溶剤の匂いがふわりと漂う。数人の部員が振り返り、ぱっと目を見開いた。

「あっ――方波見さん」

 驚きの声があがる。しかしそれはすぐに、弾むような笑顔へと変わった。

「先生から聞いたよ。前にこの学校にいたとき、美術部だったんでしょ?」

「一緒に描こうよ!」

 記憶の片隅にあるかつての美術部は、もっと硬い空気に包まれていた。作品の出来ばかりが評価され、静けさの中に張り詰めた緊張が満ちていた。そこに居た方波見自身も、いつも肩に力が入り、孤独に絵と向き合っていたのである。

 方波見は思わず呟く。

「私が以前いたときと、部の雰囲気が随分違うのね」

 すると一人の部員が頷きながら答えた。

「あんな事件がありましたし、顧問も別の先生に変わりましたから……今の先生は、生徒の自主性を大事にしてくれる方です。だから以前より、部員も伸び伸び活動できてるんだと思います」

 カーテンから射し込む光に、絵筆やキャンバスが柔らかく照らされている。

 部員たちは互いに言葉を交わし、時に笑い合いながら作業を続けていた。その空気は、競い合うよりも、讃え合うことを当たり前とする温度で満ちている。

 方波見は深く息を吸い込む。久しぶりに触れる絵の具や画材の香り――そして、目の前の笑顔。

(それでも、以前の私だったら……この和やかさを、ただ「甘さ」だと切り捨ててしまったかもしれない。結果ばかりを求めて、誰かの笑顔に目を向ける余裕なんて、なかったのだから)

 過去の記憶は薄れているのに、不思議と胸の奥に柔らかな温度が蘇ってくる。

 描く楽しさ、仲間といる心地よさ。それは四年前には決して手にできなかったものだった。

 方波見は、キャンバスに向かう。

 しばらくの間止まっていた筆先は、少しずつ動きを取り戻す。

 その横から、美術部の仲間たちが身を寄せ合い、楽しげに覗き込んでくる。筆の動きに合わせて、目を輝かせながら小さくうなずいたり、微笑み合ったりしていた。

 

 時々、機関の監視者やアドバイザーの助言を受けながら、彼女は自分の色を少しずつ取り戻していく。


 ある日、旧体育館のステージに座り、方波見は一人でスケッチをしていた。

 ふと視線を感じ顔を上げると、目の前にバスケットボールを抱えた少年が立っている。

「……あの、君……」

 少年は少し戸惑いながらも、自然な笑みを向ける。

 方波見は、彼と会うのはこれが初めてではない気がした。

「……もしかして、前にどこかで?」

「俺も思ったんだ。気のせいだよな、多分」

 二人の言葉は同時に重なり、思わず目を見合わせる。

 くすくすと笑いがこぼれ、張りつめていた空気が少しだけほどけていった。

「三年の、方波見……紬です」

「先輩でしたか! 敬語じゃなくてすみません……森と言います。バスケ部の一年です」

 互いに互いのことを全く知らない。記憶も存在も初めてだ。しかし、どこか心の奥で、見覚えのような感覚が微かに残る。

 短い沈黙の後、森は肩を少しすくめて笑った。

「……先輩は、よくこの体育館に来るんですか?」

「ええ、絵を描くのが好きで……」

「そうですか。俺もよくここで練習してるんです。シュートの感覚を確かめるために」

 方波見は少し笑みを返す。

「バスケットボール、上手?」

 森はボールを軽く手で転がしながら、少しずつ距離を詰める。

「まだまだです。ほら」

 森がシュートを試みると、ボールはリングをかすめ、ネットを揺らした。

 旧体育館の静けさの中、ほんの少しだけ心が温まる瞬間が訪れる。

「わあ……!」

 方波見の口から思わず感嘆の声が漏れる。

 森は頭をかきながら、少し照れくさそうに笑った。

「今のはたまたま」

 方波見は思わず、手に持っていたスケッチブックを胸に引き寄せる。

「すごい……コートの上でも、絵を描くときと同じくらい集中してるんだね」

 森は照れくさそうに肩をすくめた。

「ええ。絵とバスケ、どっちも同じなんじゃないですか? 『夢中になる』って意味では」

 方波見はその言葉に微かに頷き、再びスケッチブックを開く。

「確かに……私も集中するときは、あなたみたいに『夢中になる』かも」

「……今度、俺にも見せてくださいよ。描けたら」

「ええ、もちろん」

 その瞬間、体育館内の静寂が二人だけの空間に変わった。

 言葉は短くても、自然に会話が弾む。

 いつ会ったのか完全には思い出せないけれど、互いの存在に自然と興味が芽生えていた。

 小さな笑みと視線のやり取りだけで、ほんの少し距離が縮まった気がする。

 再度、森がボールを持ち直し、軽くジャンプしてシュートを放つ。

 方波見は静かに観察しながら、心の奥で微かな期待と安心感を感じた。

(……私、もしかしてもう一人じゃない……?)

 そう思うには十分な、出会いの温もりだった。


 連絡通路の角を曲がった瞬間、東村は正面から現れた影に目を見開き、思わず声を漏らした。

「あっ!」

 隣を歩いていた都築も立ち止まり、驚いたように振り向く。

「先輩、どうしたんですか?」

 二人の正面。すぐ手の届きそうな距離に、方波見が立ち止まっていた。

 東村は一瞬戸惑い、彼女を見つめたまま小さく息をつく。

「……あ、ごめん。人違いかも……でも、なんだか、どこかで会ったことがあるような……」

 方波見は微かに眉をひそめ、視線を二人に向ける。

「もしかして、以前もここで……?」

 言葉に詰まりながらも、互いにどこか既視感を覚えていた。方波見の静かな声に、東村は軽く頷き、都築は目を細めて二人のやりとりを見守る。

「ちょっと待ってね……」

 東村は躊躇いながらも鞄から小さなアルバムを取り出し、手早くページをめくる。その指先が止まり、一枚のチェキを取り出した。

 そこには、突然カメラを向けられ、驚いたような表情をした「方波見紬」が写っていた。

東村は軽く息をつき、そっと方波見に見せる。

「……覚えてる?」

 方波見は写真を見つめ、胸の奥に微かな温かさを感じながら、記憶の糸を手繰る。だが、結局思い出せそうで思い出せなかった。

「ごめん……何となくしか覚えてない」

 東村はチェキを差し出したまま、肩を軽くすくめる。

「……いいの。実は私も、なんとなくしか覚えてないんだー」

 彼女は一瞬、視線を逸らして深呼吸し、少し微笑んだ。

 方波見は写真を見つめながら、指先でそっと写真の縁を撫でる。

「そう……これを撮った日、私たち、確かにここにいたんだね」

 東村は微かに笑みを浮かべ、頷いた。

「うん。よかったー……アルバムの中でこの写真だけ、撮ったときのことも、被写体が誰なのかも、全く思い出せなかったんだよ。自分で撮ったはずなのに、普通そんなのあるわけないじゃん? 不思議なこともあるもんだなーって」

 東村はふっと肩の力を抜き、笑顔のまま言葉を続けた。

「でも、楽しかったのだけは覚えてる。だから、これからまた少しずつ思い出していかない?」

 方波見もそっと頷き、胸の奥に柔らかな温度が広がるのを感じた。

「……ちょっと、お二人さん、イチャつきすぎじゃないですか?」

 都築が二人にじっとりとした視線を向ける。

「亜里沙、妬いてるの~? 可愛いところあるじゃん!」

「違いますよぉ!」

 そのやり取りを横から眺めて、方波見はくすくすと笑う。

 三人の間に、過去と今をつなぐ小さな橋が静かに架かる瞬間だった。

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