第31話
暗闇の中、方波見の肩は小さく震えている。
スクリーンに映し出された光景は、知らず知らずの内に彼女の心の奥底に触れていた。
指先まで熱を帯びるような感覚とともに、涙が頬を伝う。
二人きりの映画館に、静かな嗚咽だけが響く。
彼女は息を詰め、手で顔を覆ったが、それでも止められない。画面に映る過去の断片が、心を突き刺す。
「もう見なくていい……見なくていいんだ……」
低く、しかし力強い声が、暗闇を裂くように響いた。手のひらが、彼女の視界を覆った。
突然、スクリーンは消え、光も影も一瞬で奪われる。
「すまなかった――」
蓮井の声を聞き、方波見はわずかに俯く。胸の奥にあった何かが、ぎゅっと締め付けられるようだった。けれど、涙は止まらない。
「全部思い出したよ……私、こんな大事なこと忘れてたんだね……最低だ」
方波見はぽつりと呟く。
淡い光に包まれていた〈チャプター・ハウス〉の世界が、少しずつ色を失っていった。
天井は霞み、地面の感触も薄れ、足元がふわりと揺れる。
方波見の胸は、先程感じた痛みや温もりの余韻でまだ熱く、乾ききらない涙の跡が頬に残っていた。
「……あれは……」
声にならない声を吐き出す。幻の映画館、過去の自分、フェルニゲシュとの関係、幸野舞美の事件、視界を遮った蓮井の手――。
それらは全て、もうここにはないのだと思うと、胸がぎゅっと締め付けられた。
現実の感触が戻ってくる。
座り込んだ床の硬さ、冷たい空気。あの映画館と比べると、すべてが味気なく感じられた。けれど心の奥には、確かな温もりが残っている。
蓮井は、あんなに酷いことをした私に「もう見なくていい」と言ってくれたのだ――。
方波見は深く息を吸い込み、ゆっくりと吐き出す。
「戻ってきたのね……」
微かに笑みを浮かべながら、彼女は前を見据える。
スクリーンはもうどこにもないけれど、「自分は確かにここにいる」と実感していた。
方波見が静かに立ち上がると、目の前には蓮井と常川の姿があった。
二人の表情は、先程の激しい攻防を忘れたかのように穏やかだったので、方波見の胸の奥で安堵と後ろめたさが交錯する。
「……落ち着いたか?」
蓮井の声は静かだが、不思議と心を支える力を持っていた。
方波見は、力強く頷き返す。
その一方で、学校上空は狂気の炎に包まれていた。
フェルニゲシュが暴走し、学校の屋根をも焼き尽くそうと炎を吹き上げる。窓ガラスが割れ、壁の一部が崩れ落ち、煙と炎の匂いが押し寄せてきた。
「どうすれば……」
方波見の唇が震える。胸の奥で、何かが引き裂かれるように痛む。
本来なら自分の意思で抑えられるはずのフェルニゲシュが、もはや彼女の声に応えようとしない。炎は彼女の意志を無視して勝手に燃え広がり、狂ったように夜空を赤く染めていくのだ。
足がすくみ、呼吸すらうまくできない。恐怖と、制御を失ったという自覚が、胸を押し潰していく。
蓮井は窓越しに空を睨み、必死に次の一手を探す。
フェルニゲシュはさらに勢いを増し、方波見たちのいる棟にまで炎を向けようとした。
方波見は思わず目を瞑る――。
熱波と轟音が迫り、時間が止まったかのように感じられた。
――その瞬間、空気が変わった。
強い祈りの声が、校内に響く轟音の中を突き抜ける。屋上全体が眩い光に包まれ、銀色の翼を持つ”不死鳥”が天高く舞い上がった。
羽根一枚一枚が細かく光を放ち、振るうたびに鋭い光線のような煌めきが迸る。
フェルニゲシュの吐く炎が迫った。
だが、不死鳥の翼がその進路を切り裂いた瞬間、炎と光がぶつかり合い、強烈な衝撃波が周囲に広がった。風が吹き荒れ、砂塵が舞い上がり、方波見たちの髪や服を激しく揺らす。
炎の勢いは阻まれ、光の奔流に押し返される。ギリギリのところで、方波見たちの棟をかすめることなく、火柱は空へ逸れ、粉塵となって消えたのだ。
空気中に金属のような匂いが漂い、光と炎の衝突の余韻が残っている。
「待たせたわね」
屋上から、清水の声が響く――。
方波見が恐る恐る目を開くと、蓮井は口元に軽く笑みを浮かべ、肩をすくめた。
「おお、待ってたぜ、清水部長! やっと来たかって感じだな」
常川は思わず目を見開き、驚きと安堵が混ざった表情で、息を呑んだまましばし天を仰ぐ。
方波見は二人の反応を目にして、胸の奥に少しだけ力が戻るのを感じた。
銀色の翼は燃え盛るように輝き、祈りの力を宿したまま、フェルニゲシュに向かって反撃の構えを取った。
街と学校を巻き込む絶望の炎と、祈りが結実した光の守護――その緊張の中、方波見は小さく息を呑む。
まだ胸の奥に恐怖と焦りが残ってはいるが、同時に決意も芽生えていた。
――逃げることはできない、見届けるしかないのだ、と。
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