第30話

 それから数日後、放課後の美術準備室で、私は目を疑うような光景に遭遇してしまった。

 

 教師――私が嫌悪と軽蔑の入り混じった感情を抱く美術部の顧問が、マイミ―と唇を重ねている。

 

 頭が真っ白になった。

 すぐに目を逸らしたのに、網膜に焼き付いて離れない。

 喉の奥に、冷たいものが逆流してくる。


 ――最低だ。

 ――気持ち悪い。


 そう思った瞬間、足は勝手に廊下を駆け出していた。

 どこに向かっているのか考える余裕もなく、たどり着いたのは女子トイレ。

 個室に飛び込み、扉を閉めると同時に、胃の奥からせり上がるものに抗えなくなった。

 便器にしがみつき、吐き出す。

 体を震わせながら、何度もえずく。

 涙で視界がにじむ。

 胃の中はもう空っぽなのに、吐き気だけが残り続けた。

 ――どうして、マイミーが。

 どうして、あんなやつなんかと。

 唇を拭い、肩で荒く息をする。

 トイレの冷たいタイルに額を押し当てると、ようやく自分の体が少しずつ静まっていくのを感じた。


 翌日、廊下で顧問を見つけた私は、周囲に聞こえない程度の声量で彼を咎めた。

「教え子に手を出すなんて、先生は何をお考えですか」

 顧問は一瞬こちらを睨みつけ、顔を引きつらせる。まるで苦虫を噛み潰したかのような表情のまま、苛立ちを隠そうともせずに舌打ちをした。


 それから数カ月後――


「ねぇ、何ムキになってんの……?」

 

「あなたとは、一生わかり合えないのかも」


 私たちが喧嘩した帰り道、夜の住宅街の薄暗がりで、マイミー――”幸野舞美”は、美術部顧問が振るった刃に貫かれた。

 顧問は現行犯逮捕されたが、目撃者は、舞美が血を流しながらも、途切れ途切れに「とある言葉」を繰り返していたのを耳にしたそうだ。

 

 その言葉とは――。


「……ごめん……紬……ごめんね……」


 それが、彼女の最後だった。


 数日後、週刊誌が書店に並ぶ。

 震える手でページをめくると、大量の活字が洪水のように飛び込んできた。


「交際は被害者が二年生のときから」

「関係を”他の生徒”に知られた」

「被害者は『先生、クビになっちゃうよ。別れよう』と告げ、距離を置いた」

「加害者はそれを拒み、次第に付き纏いを……」


 記事の文字が目に刺さるたび、息が詰まった。

 知らなかった。舞美がそんなことを……

 ――私は、彼女のことを何も知らなかったのだ。

 本を閉じたとき、世界は音を失っていた。

 

 部室には、舞美が描きかけたままの一枚の絵が、静かに残されている。

 描きかけられた横顔は、誰が見ても私をモデルにしているとわかるはずだ。

 けれど私はその絵を見ても、胸の奥に何の痛みも浮かばない。

 胸の奥に、穴が開いたようだった。

 舞美がいない世界は、色を失ったキャンバスみたいに、ただ白く虚ろで、寒々しい。

 どうして、あの子が死ななければならなかったのだろう。

 問いは答えに届かず、ただ灰のように積もるばかり。


 翌日、廊下で上級生の男子と肩がぶつかった。

「邪魔なんだけど」

 吐き捨てられた言葉が、火に油を注ぐ。

 ――そのとき。頭の奥で、炎のような声が響いた。


”小さき影よ、怒りを燃やせ。貴様を嘲る声に屈するな”


 フェルニゲシュだ。わたしを見下ろす、金の瞳の残像が思い浮かぶ。

 

 気づけば私は、相手の胸ぐらを掴んでいた。

「おい、何すんだよ⁉」

 拳が震える。抑えようとしても、フェルニゲシュの声が重なる。


”打ち砕け。貴様を無下にする者を、先に無き者とせよ”


 ――乾いた衝撃。手の甲に、骨ばった感触。

 誰かの驚く声。倒れ込む姿。

 それでも足りない。胸の奥で渦巻く熱は冷めない。


 教室に入ると、ひそひそ声が耳に届く。

「痴情のもつれで死ぬとか、馬鹿でしょ」

 

 クラスのリーダー格の女子が笑い交じりに言ったその一言で、私の視界は真っ赤に染まった。

 舞美を侮辱する者は、誰であろうと許さない――。

 私は衝動のまま机をなぎ倒し、相手の肩を両手で突き飛ばした。

 女子は椅子ごと床に倒れ、呻き声を上げる。周囲が凍りつき、ざわめきが消えた。

 誰かが慌てて駆け寄ろうとするが、私はさらに一歩踏み出し、倒れた相手の襟首をつかんで壁に叩きつけた。


「二度と……口にするな」


 自分の声が震えていた。相手は目を潤ませ、呼吸を乱しながら身を縮めている。床には筆箱や教科書が散乱し、教室の空気は張り詰めていた。

 担任が駆けつけ、取り巻きの生徒が「骨が折れてるかも」と大げさに叫ぶ。その場にいた誰もが「大変なことになった」と思わざるを得ない空気が流れている。

 誰かが私の肩を掴み、問い詰めようとした。そのとき、再び胸の奥に冷たい声が響く。

 

”よい。燃やせ。孤独の炎を、世界に解き放て”


 私の鼓動は荒れていた。周囲では、誰かが泣き、誰かが叫んでいる。

 それでも自分自身の心は驚くほど遠く、胸の穴はますます深くなっていくのを感じていた。


 机に座っているのに、誰も私を見ない。

 呼んでも、肩を叩いても、誰ひとり振り向かなくなった。

 ――ああ、ついにこの瞬間が来たのだ、と理解した。


 私はずっと、彼らを軽蔑していた。

 妬みで、他人の足を引っ張る同級生。

 理解しようともしない大人たち。

 生徒の命を奪う、”愚かな”大人たち。

 くだらない、取るに足らない、凡庸な人間しかいない。

 そんな者たちと繋がる必要なんて、もう、ない。

 私は、自分で選ぶ――。

 彼らと同じ世界から降りることを。

 社会と断ち切られ、ただの幻になることを。


「フェルニゲシュ……私、”魔女”になるよ」

 冷えきった心の底から、その言葉を告げた。


 それでも、一瞬だけ胸をよぎる。

 ――舞美に、会いたい。

 だがその願いに気づいた途端、私はさらに深く心を閉ざした。

 彼女を死に至らしめた遠因は、私の”傲慢さ”だ。

 彼女の発言に私がいちいち突っかからず、いつも通り二人で彼女の家の近くまで帰っていたら。

 あの日、先生に対して迂闊に警告なんてしなければ。

 そもそも、最初から私が、すべての他者を見下してなどいなければ。

 ――そう考えると、胸のどこかが軋む。だがその軋みを認めることは、私にとってあまりにも重すぎる。

 だから私は言葉を飲み込み、冷たく自分を正当化する。

 外側の世界を突き放すこと。それが、私のやり方だ。

 

 こうして、私という存在が校内の誰からも観測されなくなったとき――方波見紬は、透明な”魔女”になった。

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