第五章 私たちの距離は何マイル?
第29話
教室に入った瞬間、空気の温度が一度下がったような気がした。
もちろん、誰もそんなことには気づかない。ただ、私だけが敏感になっている。
机に鞄を置いても、声をかけてくる人はいない。
廊下でぶつかった子たちは、わざとらしいくらい笑いながら友達同士で喋り続ける。
私の存在を、初めから計算に入れていない。
――まあ、いつものことだ。
授業が始まれば、私はただの風景になる。指名されることも、注意されることも滅多にない。先生にとって、私は「可もなく不可もない」生徒の一人なのだろう。
放課後、美術室に寄る。
石膏像の前に立って、鉛筆を走らせる。線が紙の上でつながり、形になっていくときだけは、少しだけ生きているように感じる。
けれど顧問は、私の絵をろくに見もしない。
隣で描いている子に「いいね、素直でわかりやすい線だ」などと言葉をかけているのが聞こえる。
私の紙はただ素通り。どんなに練り込んでも、どんなに独創的でも。
「難解すぎる」「子供らしくない」
――かつて言われたその言葉が、いつも頭のどこかにこびりついている。
それでも私は描く。誰にも理解されなくても、媚びることなく。
そんな美術部の中で唯一、幼馴染のマイミ―だけは違った。
彼女は私の絵を見て、「わからない」と言いながら、それでも「好き」と笑ってくれた。
あの笑顔だけをもう一度見たい――その一心で、私は鉛筆を握り続けている。
部活終了後も私は残り、夕陽に染まる窓辺で黙々と筆を動かしていた。
キャンバスの横から、にゅっと、マイミ―が顔を覗かせる。
「……それ、私?」
「……ああ。勝手に描いてごめん。どうしても描きたくなって」
正直に口にすると、マイミーは少し目を丸くして、それからふっと笑った。
「謝ることじゃないよ。むしろ嬉しい。それにしても、やっぱり紬は絵が上手いよね……」
私は視線を落とし、絵に向き直った。
「ちゃんと似せたいのに何か足りない……長い付き合いなのにマイミ―のこと、まだちゃんと掴みきれてない気がする」
「そうかな? 自分の顔だからよくわかんない」
「そっか……あ、聞き忘れてた。この絵、今度作る、部内の作品集用で提出していい?」
その言葉に、マイミーは少し間を置いてから答えた。
「……うーん。いいけど、何か恥ずかしいな……」
マイミ―は自分のスケッチブックを手に取り、照れくさそうに続ける。
「だったら……私もお返しするね」
「本当に? 何を描いてくれるの?」
「まだ秘密です。一応決めてるけど!」
「……ありがとう。……私なんかに、”お返し”しなくていいのに」
「“なんか”じゃない。紬だからだよ」
そう言うと、マイミーは小さく笑った。
ある日の放課後、ふと思い出したように彼女が言った。
「ねぇ、私がどうして”マイミー”って呼ばれるようになったのか、知ってる?」
私は首を横に振る。
「中学のときさ、英語の授業で『アイ、マイ、ミー、マイン』って暗唱させられたんだけど、そのとき先生から突然『次、幸野!』って当てられて……私の下の名前、「舞美」でしょ? 何かパニックになって、『アイムマイミー!』って叫んじゃったの」
彼女は顔を赤くして笑った。
「それからずっと、クラス中で”マイミー”って。……ほんと、最悪」
「ふうん。でも、いいと思うけど?」
「なんで?」
「だって、あなたしか似合わないあだ名だから」
彼女は少し目を丸くして、それから照れ隠しのように、靴のつま先で床を小突いた。
「……ほんと、紬って時々ズルいこと言うよね」
「ズルい? それって、『いいこと言うね』ってこと?」
「……微妙に違うかな。とにかくズルいの」
「ふーん……」
あれこれ喋りながら、私たちは旧体育館に辿り着く。
旧体育館の二階席は、私とマイミ―がよく時間を潰す場所だった。
部活がない日や授業が早く終わった日、私たちはあの場所でだらだらと駄弁り、時にはスケッチブックを広げることもある。
けれどこの日、中に入ろうとしたら靴箱の前にバスケ部の監督が立っていて、男子生徒を何人かを並ばせていた。
「壊したのはお前たちだろう」
叱責の声と、俯いた男子たち。どうやら彼らは、二階席の椅子を壊したらしい。
それから程なくして、「安全管理上の理由」で二階席は立ち入り禁止になった。
私と幸野が座っていた椅子は、テープで封鎖され、ただ埃をかぶっている。
私は、その光景を見るたびに思い出す。
――あの場所は、私とマイミ―がよく並んで座っていた。
何を話すでもなく、時間を潰すために寄り道しただけの場所。けれど、そこではマイミ―が隣にいるのが当たり前で、私の描く落書きも、彼女だけは笑ってくれた。
私の中で、その二階席が失われたという事実は、どうしても、ただ「壊れた椅子」以上の意味を持ってしまう。
私たちが一緒に過ごす時間そのものも、やがてこうして――なくなるのだろうか。
私たちの居場所が、ひとつ減った。
帰り道、マイミ―と分かれ、とぼとぼ歩く私の胸の奥に、低い声が響き渡る。
”――あの娘は、友か?”
思わず周囲を見渡す。誰もいない。
けれど、問いかけは確かに私の中へ降りてきた。
間違いない。《フェルニゲシュ》だ――。
あの日、図書館で分厚い図鑑を捲り、その名と姿を目にして以来、時折こうして声をかけられるようになった。
ページの中から抜け出したかのように、その存在は私の思考に溶け込んでいる。
日を追うごとに、フェルニゲシュの囁きはどんどん鮮明になっていく。
「……友?」
口に出した瞬間、自分でも違和感を覚える。
”貴様の隣にいたあの者は、貴様にとって何なのだ?”
「……あの子は――」
言い淀む。言葉が出てこない。マイミ―の笑顔や声は鮮明なのに、関係を定義する言葉だけが空白になる。
”孤独を分け合える存在を、人は友と呼ぶのだろう?”
フェルニゲシュの声は、黒い炎のように重く、しかしどこかあたたかさを孕んでいた。
私は視線を落とし、靴の先で地面を擦った。
「……そう、だと思う。少なくともあの子は、私を苦しませたりはしてこない。むしろ笑わせてくれるから」
”そうか――ならば……それを失う痛みもまた大きい”
声が胸の奥に沈むたび、心のどこかがじわじわと熱を帯びる。
私は目を閉じた。
マイミ―の笑い声が蘇る。私の絵を見て、「わからないけど好き」と言ってくれたときの表情。
――友かどうか、そんな定義はどうでもよかった。
ただ確かに、私の世界に彼女は必要なのだから。
ある日の、美術の時間。
私は夢中になっていた。紙の上に広がっているのは、真っ黒な影を纏った竜の姿。
フェルニゲシュを見たときの熱――胸の奥に溜まったそれを吐き出すように、鉛筆を走らせる。
線は止まらない。まるで自分の手ではなく、竜が描かせているかのようだった。
「……まただよ」
「上手いのが余計に気持ち悪いんだよな」
後ろから囁く声。笑い混じりのひそひそ話。
振り返らなくてもわかる。私の描くものは、誰からも好かれていない。
上手いと言われても、それは誉め言葉ではなかった。
出来すぎている、暗い、怖い。そういう意味での「上手さ」だ。
けれど、不思議と胸は痛まない。
――むしろ誇らしかった。
私の線は彼らの理解を越えている。愚かな者には届かないのだ。
(フェルニゲシュはいつかきっと、このくだらない世界を終わらせてくれる――)
私はなぜか最近、そんな風に確信していた。
お互い口に出したわけではないが、それは竜と交わした”二人だけの秘密”のように思える。
授業が終わり、片づけをしていると、マイミ―が私の机に寄ってきた。
「紬……最近、なんか変だよ」
彼女は不安そうに目を伏せる。
「絵はすごいけど……見てると少し、胸がざわざわする。大丈夫なの?」
私は一瞬、言葉を失った。
マイミ―の声は、フェルニゲシュの低い響きとはまるで違う。
けれど、不思議なことに両方が胸に刻み込まれて、消えない。
「……大丈夫。大丈夫よ。だって、この竜は――」
笑ってごまかそうとした唇が、かすかに震えていた。
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