第28話
蓮井は下のフロアに身を伏せ、傷ついた体を起こそうとする。
「方波見……君は――」
言葉を遮るように、方波見は一歩踏み出す。
その隙を突き、廊下の窓から常川が素早く飛び込む。
常川は握っていたバットを、方波見に向かって勢いよく投げつけた――だが、方波見が手をかざすと、まるで空気を切ったようにバットは手前で弾かれ、廊下の壁に当たって跳ね返った。
その間に常川は、勢いよく蓮井の方に手を伸ばす。
「もらったぁ!」
方波見の視線が驚きに揺れる。常川の手には、蓮井が携えていた一枚の絵――かつて方波見が描いた、幸野舞実の肖像が握られていた。
常川はそのまま絵を胸に抱え、美術室の奥へと駆け込む。
方波見の顔に一瞬、焦りが走る。だが、その眼差しはすぐに冷たく、鋭い光を取り戻す。
「……逃げられるとでも? その絵を渡しなさい」
上空ではフェルニゲシュが再び翼を羽ばたかせ、街全体を覆う光の奔流を放った。建物は崩れ、夜の静寂は断ち切られ、三人を包む空気は凍るほど緊迫する。
方波見紬はゆっくりと美術室に足を踏み入れる。肖像画に手を伸ばすことはなく、静かに常川を見据える。
常川は肖像画をしっかり抱え込むと、美術室の中央辺りから方波見を睨みつけた。
「おっと……その壁からそれ以上離れるな。この絵を破るぜ」
「……それが、あなたの選択? 私の心を壊すつもり?」
柔らかい声の奥には、抗えない怒りが潜んでいる。
常川は、息を整えながら答える。
「俺だって壊したくはねえ。ただ……街を守るためにはこうするしかないんでね」
腕の中の肖像画の重みが、彼の覚悟を表す。
方波見は微かに眉を寄せる。無表情がほんの一瞬、揺らぐ。
「守る……? 他者の痛みも、私の想いも、何もわからないくせに」
常川は前に一歩踏み出す。肖像画を胸に抱き、力を込めて言う。
「わからなくても……それでも俺はやるぜ。そっちがその気ならな」
方波見紬の瞳が、常川の真剣な覚悟に揺れ、室内の空気が一瞬止まる。
そして方波見は、ぽつりと言葉を落とした。
「……あなた、本当に無謀ね」
互いに静かに呼吸を重ねながら、二人は一瞬、目だけで会話するかのような緊張を共有する。美術室の闇と光が、まるで時間を止めたかのように二人を包み込んでいた。
――そのときだった。
「ご苦労! 常川君!」
隣室である男子トイレの方向から響いた拡声器の声に、方波見は思わず振り返る。
その瞬間常川は、美術室の黒板側へゆっくりと下がっていく。
その動きを目にした方波見は、ふと気づく。
「その動きは……連携していたのね、二人で」
しかし、その理解は既に遅かった。
蓮井はトイレの扉を閉め、壁に背をつけて立つ。
ライトの光でわずかに照らされた空間の中、彼は深く息を吸い込み、手をゆっくり前に伸ばす。
「今から、君自身も忘れてしまっている”過去”を全て暴く。覚悟しておくんだな――」
言葉が空気に溶けるや否や、トイレの壁越しに力がうねりを帯び、見えない結界のように美術室全体に張り巡らされる。
方波見は眉をひそめ、瞬間的に反応しようとするも、既に蓮井の能力――〈チャプター・ハウス〉が発動していた。
床や壁、空間を歪める力が、美術室の中で彼女の視覚と動きを捕らえ、彼女の世界の「外側」から、記憶の裂け目にまで到達しようとしている。
「……これは……っ」
方波見は思わず声を震わせた。普段、揺るがない自信を湛える彼女の瞳に、初めて恐怖の色が差し込む。
常川は肖像画をしっかり抱えながら、黒板の前で身を屈め、蓮井の能力の発動を信じるしかなかった。
屋内に張り巡らされる見えない力――それは、過去と現在を繋ぎ、方波見自身の「忘れていた記憶」を暴き出す準備を静かに整えていた。
蓮井は心の中で強く思ったのだった。
この世界の主を自称する方波見は竜を召喚した。ここは”そういう”世界なのだ。余所者だって、願いを込めれば何かは起こるはずだ――。
(方波見にも”映画”を見せるしか、手はない――)
その瞬間、空間が歪むような感覚が走る。光がねじれ、床の感触が曖昧になり、男子トイレの狭い空間も、屋上も、美術室も、すべてが溶ける。
本来であれば、自分に触れている相手にしか作用しないはずの能力が――不思議なことに、隣室にいる方波見にも及んだ。
方波見の”精神世界”の「願えば叶う」という法則が、蓮井の意志を受け入れたのだ。
方波見は一瞬、視界の端に光の渦を感じた。柔らかく揺れる光が集まり、やがて彼女の足元に黒い床を形作る。
そこは、現実の世界にも、方波見の精神世界にも存在しない映画館だった。薄明かりに照らされたスクリーンが静かに光を放ち、座席はきちんと並べられている。
「……ここは……?」
方波見は、驚きと戸惑いが入り混じったような声を漏らした。しかしその表情は、完全な恐怖だけではない。どこか、懐かしさを覚えるような柔らかさも混ざっている。
蓮井は目を閉じ、静かに声をかけた。
「お願いだ、見てくれ……君も、この映画を」
精神世界の法則が、それに応える。
方波見は目の前に現れた映画館の暗闇に、自然と歩みを進め、座席に腰を下ろす。
方波見の精神世界では、フェルニゲシュが低く唸り、街に光の破片を撒き散らしている。
その間も屋上の清水は、目を閉じてひたすら祈り続けていた。声にならない願いが夜風に乗り、地面が眩く発光し始める。
蓮井は静かに呼吸を整える。彼の望みは形になった。
触れることなく、方波見を映画館に連れてくることに成功し――彼女自身も、無意識のうちに観客になろうとしている。
光と影の中で、方波見の瞳がゆっくりとスクリーンを追う。彼女は蓮井の望みとともに、静かにその物語の世界に身を委ね始めた。
カタカタと映写機の音が響き、スクリーンが淡く光り始める。
映し出されたのは、四年前と思われる映像。
美術部室の机の上には絵具や筆が散らばり、窓から差し込む柔らかな光が埃を浮かび上がらせている。
少女が一人、静かにキャンバスに向かっていた。
方波見紬だ――集中した瞳、迷いのない筆運び、そして時折つく小さなため息。部室の静寂に、彼女の呼吸や筆の音が微かに混ざる。
カメラがゆっくりと少女の手元に寄った。
色彩はまだ乾いておらず、混ざり合った絵具がキャンバスの上で生き生きと揺れている。
少女は一瞬、窓の外を見やった。遠くの校舎や空を、どこか虚ろな表情で見つめるその瞳は、未来の自分が辿る運命をまだ知らない。
こうして、「方波見紬」の物語が、観客二人を伴って幕を開けた。
二人は真剣にスクリーンを見つめ、知らなかった物語の断片が静かに、そして確実に心に刻まれていく。
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