第22話
六月のとある日の放課後――静かな美術準備室。
あれから魔女さんは、予告通り、本当に私たちの前から姿を消した。彼女がどこへ行ったのかは、きっと誰も知らない。
私は今、魔女さんが描いたという「あの絵」を、もう一度見に来ている。
深青の夜空に、結晶で覆われた竜は悠然と舞い、淡い光が鱗に反射している。線は柔らかく、でも意思を持って描かれたようで、魔女さんの心そのものがそこに宿っている気がした。
……そのとき、キャンバスの端から細い紐のようなものがはみ出しているのに気付く。
引っ張ってみるとそれは、小さなタグだった。
この絵を発見したときは隙間に挟まっていたらしく、三人とも存在に気付かなかった。
恐る恐るめくってみると、そこには名札が貼ってあり――「三年E組
(ああ、これが……彼女の名前だったんだ)
これまで「魔女さん」としか呼べなかったあの子の名前を、私は初めて知った。胸の奥がじんわりと熱くなる。
私はそっと、両の手のひらを胸の前で合わせて、ささやかなお祈りをした。
「……」
「あれ、東村さんじゃん。何してるの?」
部屋に入ってきた美術部員に声をかけられ、私はにっこりと笑って答えた。
「この絵を描いた人に、『楽しい時間をありがとう』って。あと、『幸せになってね』って」
魔女さんと最後に会った日のことを思い出す――。
あの日、亜里沙が合奏練習に行ったため、連絡通路に残っていたのは、私と魔女さんの二人だけだった。
「魔女さんはさ、あの絵をどんな気持ちで書いたか、本当に覚えてないの?」
「覚えてない。同じものを描けって言われたら、多分すぐにでも描けるけど、あのときの”気持ち”だけはわからない……」
「そうなんだ……それってきっと辛いよね。過去の魔女さんは、何か伝えたいことがあって、どうしても表現したいことがあって、あの絵を描いたと思うんだ。それがわからなくなってしまうって、過去の魔女さんだけじゃなくて、今のあなたにとってもすごく悲しいことなんだろうなって思う」
「ありがとう……そういう風に思ってもらえるなら、意図がわからなくても、私があの絵を描いた意味はあったってことじゃないかな」
「……それって、どういうこと?」
「絵に限らず、全ての創作物に言えることだと思うけど、きっと、創ること自体に何か意味があるわけではないのよ。それを見た人が十人十色、それぞれの感想を抱くわけでしょう? それが全てなんだと思う。そうして、”私たち”の作品は、誰かの「心の細胞」の一部になる。栄養が血肉に変わっていくみたいにね。そうやって意思が伝わり続ける限り、”私たち”は大丈夫」
彼女の言葉の一つ一つが、じんわりと胸の中に広がっていく。
思わず一筋の涙が零れた。自分が無意識のうちに、数ある趣味の中からカメラを選んだ理由――それが、初めてわかった気がしたのだ。
私はこの世界の誰かに、私の写真を届けたい。
その思いのために、景色を、人を、カメラの中に収め続けているんだ。
誰かに作品を見てもらえる。感想を抱いてもらえる。それだけで、きっと十分なんだね――。
私は、思わず彼女の手を握った。初めて触れた彼女の手は、36.5℃の「私と同じ体温」だと感じる。
忘れ去られ、光の影響を受けなくなった少女は、それでも、紛れもなく「人間」だった。
気付けば私の顔は、涙でぐしゃぐしゃになっていた。
「そうだね……すごいね、魔女さんって。今の言葉聞いて、何か感動しちゃった……」
声が小さく震え、息が詰まりそうになる。私は嗚咽をこらえ、左手を胸に押し当てながら、懸命に言葉を紡いだ。
「気付いてあげられなくて……ごめんね。あなたが生きているってこと、『人間』だってこと。こんな当たり前のこと、今更気付くなんて……バカだよね、私」
言葉が途切れ、胸が痛む。
涙が頬を伝い、声を詰まらせながらも、私は続けた。
「……これからも、たくさん写真撮るね。この命が続く限り、撮り続けるね――」
「……うん。ありがとう――東村さんは、どんな写真が撮りたい?」
彼女は、目を細めて、静かに微笑みながら問いかける。
「そうだなぁ……来年、桜の季節になったらさ、萩架根大社に撮りに行きたいんだ。綺麗な桜を。今年はバタバタしてて行けなかったから……そのときは絶対に見てよ。すごいの撮っておくから」
私の声はまだ少し震えていたけど、彼女は静かに微笑んだ。
「絶対、また会おうね」
そう言って手を離した私は、その勢いのまま、首から提げていたインスタントカメラで彼女を捉える。
「随分、急に撮るカメラマンだね」
彼女は珍しく、冗談を口にした。
顔を見合わせた私たちは、一瞬こらえたものの、 やがて、声を出して笑ってしまった。
少し息を切らし、肩を揺らし、 互いの笑顔を確かめ合うように、また笑う。
あのとき私たちは、何がそんなに可笑しかったんだろう。
普段大人っぽい魔女さんが、突然ジョークを言ったから?
笑い合える幸せを、分かち合いたかったから?
……それとも、友達になれたから?
今はもうわからないや。
ぼやけた輪郭の、でも確かにそこにあった笑顔を、私は胸に刻んだ。
絵を見終えて美術準備室を出ると、優しい午後の光が、窓辺にキラキラと反射していた。
その光が目を掠めるたびに私は、三人で過ごした”かけがえのない時間”のことを思い出す。
廊下には、亜里沙のオーボエの音が響き渡っている。
一年生なのに、夏のコンクールでソロを吹くことになったそうだ。本当にすごい。
私も、写真部のコンテストに向けて頑張らなきゃなと思う。
ポケットから、あの日の写真をそっと取り出した。 手のひらに広がる温かさを感じながら、私はただ、その一枚を見つめていた。
「亜里沙にも見せてあげよう」
私は今、きっとニヤニヤしている。
この写真を見たときの亜里沙の反応が、すぐに想像できたからだ。
写真には、突然カメラを向けられて、驚いた表情をしている「方波見 紬」が、はっきりと写っている。
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