第18話
翌週――放課後になるや否や、私はカメラケースとメモ帳を携えて連絡通路へと向かった。
夕方の光に照らされた通路に響き渡る、神秘的なオーボエの音色と、壁に寄りかかってそれを聞く、長い黒髪の少女。二人は、今日もこの場所に来ていた。胸の奥でちくりと疼くものを抱えたまま、私も二人がいる方へ足を向ける。
――まずは謝らなくちゃ。
「この前はごめん!」
思い切って声に出すと、二人の視線がこちらに向いた。
「私が指摘したせいで、気まずい雰囲気になっちゃったから……」
言葉が空気に溶けるのを待つように沈黙が落ちる。やがて魔女さんが小さく首を横に振った。怒ってはいないようだ。けれど、その無表情さがかえってこちらの胸を締めつける。
それでも、少しだけ肩の荷が下りた気がした。謝るべきことは謝った。次のステップだ。
「確認なんだけどさ、魔女さんがどういう存在なのか、自分自身でも分からないってことだよね?」
そう切り出すと、彼女は頷いた。そして隣にいた亜里沙も、わずかに目を瞬かせている。
「提案なんだけどさ」
私はケースを持ち直し、左手でぎゅっとメモ帳を握りしめた。
「私たちで調べてみない? 魔女さんがどういう存在なのか」
放課後の通路に、今度は気まずさではなく、次に進むための沈黙が広がっていく。
魔女さんはしばらく黙っていたけれど、やがて小さく肩をすくめた。
「……調べるって、どうやって?」
その声に、私は待ってましたとばかりにカメラケースを掲げる。
「これ! 写真。私、撮るの好きだから。メモも取るし、調べたことをまとめれば――」
「なんか、探偵っぽい」
横から茶化すように亜里沙が口を挟む。相変わらず落ち着いているが、目は少し楽しそうだ。
「そうそう! 探偵だよ。魔女さんが何者なのか――一緒に探っていくの」
気づけば、さっきまでまとわりついていた重苦しい空気は薄れていた。代わりに、胸の奥に小さな火がともったみたいに、期待と高揚が広がっていく。
魔女さんは少し考えてから、こくりとうなずいた。
「……まあ、いいか。私も、知りたいし」
その一言が合図のように、三人の間に目に見えない輪ができた気がした。
放課後の連絡通路は、もうただの通路じゃない。これから始まる、調査の拠点になったのだ。
「ってことで、今日はいつもとは違うカメラを使います。じゃーん!」
私はケースから小さな白い「チェキ」を取り出し、軽く振ってみせる。
亜里沙が目を丸くした。
「それ……チェキですか?」
「そうそう、部室の備品棚にあったから借りてきたんだ。撮ったらその場で出てくるし、写真を全員で確認するには、うってつけでしょ? ちょっと遊び感覚でやってみようってわけ」
私は笑顔を作りながらも、カメラに手をかける。指先は少し固い。
亜里沙は小さく笑いながらも、目の奥にわずかに真剣な光を宿す。
「じゃあ、早速……撮ってみるね」
私はチェキを持ち上げ、魔女さんの方に向ける。彼女は小さく頷き、こちらを見つめた。
パシャッ。
小さなシャッター音とともに、チェキのフィルムがゆっくりと引き出される。
シャッターを押す瞬間の緊張、光の加減、写り方の変化――まるで小さな実験装置を扱うみたいだった。
私は息を詰め、現像される瞬間を見守った。
……あれ?
紙に現れたのは、夕陽で染まった廊下と、私たち二人の影だけ。
魔女さんの輪郭は、かすかに薄く、光に溶けたような靄としてぼんやり映っているだけだった。
「……うーん」
私の声に、亜里沙も目を細める。
「……靄しか写ってない……」
魔女さんは少し首を傾げ、ふっと小さく笑った。
「写真だとこんな感じなんだ、私って」
その声は意外にも軽く、でもどこか達観したようにも聞こえた。
私はチェキを握ったまま、軽く頭をかく。
「わ、私……何か間違えたのかな?」
「いや、そんなことないと思います……昨日の影の件から推測するに、恐らく魔女さんは、光の影響を受けない。だから写真にも写らないのでは?」
亜里沙は肩をすくめる。普段は落ち着いているが、観察眼は鋭く、現象の異常さをすぐに理解しているようだった。
「なるほどね」
小さな紙を手に取り、私はそっと魔女さんのほうを見やる。
彼女は目を伏せ、やや俯き加減で、でも穏やかに笑っていた。
たった一枚のチェキが、彼女の存在の特別さを示している――それが分かるだけで、胸の奥がざわついた。
窓から差し込む夕陽の影響で、私たちの影が長く伸びる。
「これは……調べる価値があるね」
私は小さく息をつき、光や影の関係を、メモ帳に書き留めた。
亜里沙も隣で、慎重にチェキを覗き込みながら頷く。
放課後の連絡通路は、もうただの通路ではなかった。
光と影の狭間で、私たちは未知の存在と向き合い始めている。放課後の静かな廊下に、私たちの”小さな調査”が始まった音だけが響く。
夕陽が廊下の壁を赤く染める中、影と光の中で立つ魔女さんは、確かにそこにいた――写真に写らなくたって、私はいつまでもこの光景を忘れないだろう。
翌日。
放課後の連絡通路は、やはり静かだった。夕陽が窓から差し込み、床に長い影を落としている。
部活終わり、私と亜里沙は、後片付けをしながら、いつものようにぼんやりしていた。魔女さんも隣に立ち、窓の外を眺めている。
ふと、彼女が小さく息をつき、こちらを向いた。
「この前、私が『自分自身のことを何も知らない』って言ったの、覚えてる?」
「覚えてるよ。どうしたの?」
「ごめん……実は、何も知らないっていうのは嘘。……一つだけ覚えていることがあるの」
私は目を見開き、亜里沙も思わず顔を上げた。
「その一つって……?」
思わず問いかける。
魔女さんは俯き、指先で床の模様をなぞりながら言った。
「……私は昔、この学校の美術部で絵を描いていたんだ。それでね、今でもこの学校のどこかに、私が描いた絵が残っている気がする。……だから、それを探しているの」
静まり返った通路に、その声が小さく響く。
何と奇妙な話なのだろう。
思い出せないことだらけなのに、絵のことだけは確信めいて覚えている――その切実さに、なんだか胸が熱くなった。
「……だったらさ」
私はカメラを胸に抱え直し、思わず笑った。
「探しに行こうよ。もしかしたら、本当にまだ残ってるかもよ」
亜里沙が少し驚いた顔をして、それから小さく息を吐く。
「そうですね……美術部の過去の作品なら、美術準備室にあるかもしれません」
少女――魔女さんは、一瞬だけ言葉を失い、それから小さく微笑んだ。
「……いいの? 私なんかのために」
「“なんか”じゃないよ。乗り掛かった舟だ! みんなで行こう」
私が力を込めて言うと、亜里沙も賛同してくれた。
「ここで出会ったのも何かの縁ですし、私も気になります。行きましょう」
夕陽が傾く連絡通路を、三人並んで歩き出す。
目指す先は、美術準備室。まだ見ぬ絵が、そこに眠っているかもしれない――。
連絡通路を抜け、A棟の方へ向かう足取りは、わずかに弾む。誰も慌てず、でも皆が期待と少しの緊張を胸に抱えているのがわかる。
美術準備室の扉を開けると、絵の具の独特な匂いが鼻をついた。夕方の光が細長い窓から差し込み、積み上げられたキャンバスや、木炭紙に淡い陰影を落としている。
私たちは息をひそめるようにして部屋の奥へ進んだ。
「こんなにあるんじゃ……見つけるのは大変そうだね」
私が苦笑すると、亜里沙は迷いなく一番奥の棚に歩み寄った。
「やはり、ここに置かれているのは卒業生の作品ばかりみたいですね……つまり、記録に残らなかった絵があるとすれば、この辺りのはず」
彼女の言葉に導かれるように、私と魔女さんも並んで棚を覗き込む。
埃をかぶったキャンバスを数枚めくった、そのとき――。
「……あっ」
魔女さんの指先が、ある絵の端に触れた。
そこには、深青を基調にした大きなキャンバスがあった。夜空のようにも見えるし、深い海の底にも見える。
その中に、幻想的な竜の姿が浮かんでいた。
翼を広げ宙を舞うそのシルエットは、全身が透明な結晶で覆われ、光を受けて無数の煌めきを放っており、見る者を吸い込むような迫力と静けさを併せ持っている。
鱗の一枚一枚が透き通り、夜空の青を映し込みながら、まるで星々そのものが竜の体に宿っているかのようだった。
彼女は震える手で、キャンバスを抱きしめるように引き寄せた。
「……間違いない。これ、私が描いたの」
低く、それでいて確信に満ちた声だった。
私と亜里沙は息をのむ。
「すごい……綺麗……」
「ほんと……吸い込まれそう」
思わずもれた私たちの声は、準備室の静けさに吸い込まれ、キャンパスの中に溶けていった。
魔女さんは、絵の竜をじっと見つめたまま、ひとつ息を吐くと、ふっと口元を綻ばせた。
「名前も覚えてる。この子はね、《フェルニゲシュ》っていうの……嫌な奴は全員、殺してくれるんだ」
その言葉は、あまりにも唐突で――「綺麗だ」と呟いた直後に聞くには、鈍い刃物のように突き刺さった。
私は思わず体を強ばらせる。亜里沙もわずかに後ずさり、目を丸くした。
「えっ……え、冗談、だよね?」
私がぎこちなく笑いながら訊ねると、魔女さんは首を振らない。ただ静かに、でもどこか嬉しそうに目を細める。
「冗談なんかじゃない。だって、この子は私が描いたんだもの」
そう言い切る彼女の声には、子どもっぽい純粋さと、どこか底知れぬ強さが混ざっていた。
私の胸の奥に、ひんやりとした不安が広がる。きっと、彼女にとってフェルニゲシュは遊びでも空想でもなく、心の中の深淵のような部分を体現した存在なのだろう。
「……なんか、ちょっと怖い」
亜里沙が小さく息を漏らす。だがその顔には、嫌悪ではなく困惑があった。
魔女さんもふっと笑い、肩をすくめる。
「怖がらせたならごめん。でも、嫌なことがあったときに、私はこの子に助けてもらった気がするの。全部消してほしいって思ったこと、あるから」
その言葉を聞いて、私は言葉を詰まらせた。
綺麗な絵の裏にある、心の闇や孤独を、どう受け止めればいいのか分からなかった。
だが同時に、彼女がこの絵に託した“思い”の大きさだけは確かに伝わってきた。
「名前は……どこかに書いてない?」
私は絵の隅を探すが、署名は絵の具に紛れて判然とせず、読み取れない。
裏返しても、そこにはかすれた鉛筆の線があるだけで、文字ははっきり残っていなかった。
魔女さんは首を振り、絵から目を離さない。
「自分の名前なんて……もうどうでもいい。これは、私の記憶そのものだと思うから」
静かな準備室の空気が、彼女の言葉をゆっくり包み込む。
夕陽が傾き、キャンバスの深青に金色の光が差し込んだ。
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