第17話
翌日。
放課後の連絡通路は、やっぱり少しだけ静かだった。
部活に向かう生徒たちの足音が遠ざかると、あの独特の余韻だけが残る。
私は、窓の外を眺めながら黄昏れていた。亜里沙は隣で、譜面台の脚の長さを調節している。
そのときだった。
窓のそばに立って、こちらを見ている子がいた。
制服の着こなしは普通なのに、どこか輪郭が淡く見えるような気がして、目をこらさなければすぐに忘れてしまいそうな、不思議な存在感。
「あっ!……」
突然現れたので、驚いた私は、思わず声を上げてしまった。
「……」
誰もリアクションをしないので、辺り一帯に静寂が広がる。
しばらくの間、沈黙は続いた――私は、こういう気まずい”間”が苦手なのである。お願い。誰かしゃべってくれ。
(いや……他人任せは良くないか)
この状況を打破するため、私は、”謎の女子生徒”に、声をかけてみることにした。
「あのぉ……昨日も、ここにいましたよね?」
彼女は、ほんの一瞬だけ驚いたように目を見開いて、口を開いた。
「……あなたたち、私のことが見えるの?」
「当たり前じゃない。どうして?」
「そんな……ありえない」
妙なことを言う子だな、と思った。漫画好きか何かなのだろうか?「見えてはいけないものが見える系」のホラー作品でしか聞いたことがない台詞だ。
「……あなたも、この通路が好きなの?」
自分でも唐突だと思った。でも、その子は再度ゆっくりこちらを向き、小さく首をかしげた。
「好き……なのかもしれない。どうしてだろう。ここに来ると、落ち着く気がするの」
柔らかいけれど、抑揚の少ない声だな、と思った。
私は、亜里沙の方を見て「なんか、この子気になる!」と、目で訴える。
亜里沙は肩をすくめるだけだったけど、意図を理解してくれたように感じた。
そう。私は、彼女のことを”撮影”したかった。
「急にごめんね! 私は東村寧香。写真部の二年生」
そう言って胸の前でカメラを軽く持ち上げる。
「……都築亜里沙です。吹奏楽部の一年で、オーボエを担当してます」
亜里沙も、ケースを抱え直しながら言った。
二人で自己紹介を終えると、窓辺の少女は一瞬だけ言葉を探すように視線を泳がせた。
やがて、ためらいがちに口を開く。
「……名前、うまく思い出せないの」
本当に、自分の名を忘れてしまったかのように、彼女は言った。
その言葉は、冗談にも照れ隠しにも聞こえない。
私と亜里沙は、再び顔を見合わせる。不思議と怖さは感じず、むしろ彼女を助けてあげたくなるような気持ちがこみ上げてきた。
「……どういうこと?」
少女は困ったように俯き、制服の袖をきゅっと握りしめた。
「私は、自分のことを何も知らないの。気が付いたらここにいて……思い出そうとしても、何も出てこなくて……どうしてなのか、全然わからない」
沈黙が落ちる。亜里沙も私も、信じられない話だと思ったけれど、彼女の真剣な表情を見ると、嘘をついているようには見えなかった。
「わかった。じゃあ――わたしが、あだ名をつけてもいい?」
少女は驚いたようにこちらを見てから、ゆっくりと頷く。
「うん……なんでもいい」
「呼び方がないと不便ですもんね」
亜里沙が苦笑した。
私も頷き、少し考える。名前を思い出せないというなら、せめて仮の呼び名を。
私はにっこり笑って、軽く手をひらひらさせる。
「じゃあ、あなたは……『魔女さん』ね。自分のことを忘れてしまった、不思議な存在。でも、怖い感じはしないから幽霊とは違う。だから、”魔女”」
少女は一瞬口を開きかけて止め、そして小さく笑った。
「……魔女さん、ね」
その響きが、妙にしっくりとくる。
少女は口元に小さく笑みを浮かべ、何度も自分の口の中で呟くように言った。
「うん、いい名前だと思う」
思わず私も微笑む。彼女の声は柔らかく、けれどどこか凛としていた。
「私、よくここで写真を撮ってるの。光が綺麗に差し込むから」
亜里沙も同じ方向を向き、譜面台に目を落としながらも、少し肩を緩める。
「わたしも、放課後はここで練習することが多くて……あの、魔女さんもこの通路、よく来るんですか?」
亜里沙の問いかけに、魔女さんはほんの少しだけ首を傾げる。
「……うん。ここか体育館くらいしか、行くところないから」
短くても確かな言葉が、静かな通路に温かさを添える。
「この場所が気に入ったなんて、魔女さんはお目が高いねぇ」
私は、カメラを肩に抱えながらそんな風に言った。
その瞬間、三人の距離が、まるで光の粒が溶け合うように自然に近づく。
肩を並べ、互いの呼吸を感じながら、まだ言葉少なでも、互いの存在を認め合う静かな時間。
私は、敢えてシャッターを切らなかった、ただその場の光景を胸に焼きつける。
オーボエの旋律と夕陽の赤、そして初めて出会った魔女さんの気配――それらが溶け合って、まるで世界の中に私たちだけが浮かんでいるようだった。
そしてふと、私は思った。
「私が魔女さんのように記憶を失ったとして、今ここにいる他の二人は、私の代わりに、今日のことを記憶していてくれるだろうか?」――記憶することの意味を、三人で共有しているような気がした。
部活終了時刻の校内は、夕陽の色に染まっている。
私たちは下校がてら、魔女さんを連れて、校内を見て回ることにした。
私は廊下の壁に沿ってゆっくりと進む。亜里沙も譜面ケースを抱え、私たちに付き添う。
「ここからは二年生の教室と、文化部の活動教室だよ。来たことある?」
私は訊ねる。
「ううん、あんまり。人が多いところは好きじゃないの」
魔女さんは肩をすくめ、少し視線を泳がせる。
廊下の窓から射し込む光が、彼女の輪郭を淡く照らす。まるで今にも溶けてしまいそうな存在感。
「そっか。じゃあ見て回るなら、今の時間が最適だね。人、そんなにいないから」
私は努めて笑いながら言う。
教室の前に立ち、扉の番号や教室の用途を軽く説明する。
「ここ、写真部も時々使ってる教室だよ。で、こっちは楽器庫。吹奏楽部が楽器を保管してる場所ね」
亜里沙がケースを抱え直して頷く。
魔女さんは黙って、時折小さくうなずきながら廊下の壁や窓に目を向ける。
「ここ、何か見覚えある?」
私はそっと尋ねる。
「……わからない。何か、懐かしい気もするけど……思い出せない」
彼女の声は小さく、澄んでいた。
私は小さく息をつき、廊下の先を見やった。夕陽が柔らかく差し込み、壁に影を落とす――。
その瞬間、胸が跳ねた。
鼓動が早まり、呼吸が止まる。目を凝らして、もう一度壁に視線を戻す。
……違う。
何かがおかしい。
三人で歩いているはずなのに、壁に映っている影は、たった二つ。
背筋を冷たいものが這い上がり、思わず足を止めていた。
「どうかしましたか?……先輩」
亜里沙が心配そうに顔を覗きこんでくる。
私は言葉を絞り出す。
「……魔女さんの、影が……ない」
亜里沙は一瞬、きょとんと目を丸くしたが、その奥で、ほんのわずかに瞳が揺れた。彼女もゆっくりと壁に視線を移す。
夕陽の赤に染まる廊下に、静かな間が落ちる。
彼女の方に目をやると、驚きで表情が凍りついていた。
「……嘘、でしょ……」
そこに映っているのは――私と亜里沙の影だけだった。
私は壁の影を見つめたまま、息を呑む。
「じゃあ、魔女さんが言ってた『記憶がない』って、あれは……」
思わずそう呟いて横を見ると、魔女さんが静かにこちらを見ている。
目が合った瞬間、彼女の表情が微かに変わったのを見逃さなかった。
眉がぴくりと動き、唇がわずかに震える。
そして小さな声が、ほとんど聞こえないくらいの大きさで漏れた。
「『あなたたち、どうして私のことが見えるの?』と聞いたはずよ。私はそういう存在なのだから」
その言葉は空気に溶けるように消えたが、確かに彼女自身が発したものだった。
自分だけ影がないことに、彼女は元々気付いていたのだ。
彼女は、更に言葉を紡ぐ。
「でも、これって、そんなにおかしなことなのかな。人間誰しも、死んだら忘れられるし、影だってなくなるものでしょう? ……今の私は生きているのか、死んでいるのか、よくわからないのは確かだけどね。ごめんね? 中途半端な存在で」
口元は微笑んでいるように見えるが、目の奥に、驚きと不安が入り混じった光が瞬き、肩が少し震えている。
私はそっと手を伸ばすこともできず、ただただ、その場に立ち尽くした。
亜里沙が、唇を小さく動かした。
何か言いたそうに、何度も声を出しかけては、喉の奥で止める。
その手つきや目の動きだけで、彼女の動揺がはっきりとわかる。
「……あの……」
わずかに漏れた声は、そこで止まった。
亜里沙は、何も言えない自分に驚いたのか、一瞬息を飲んだ。
彼女の視線は魔女さんではなく、壁の影のほうへ向かう。
ゆっくりと瞳が揺れ、言葉を飲み込む瞬間、私の胸に冷たい空気が流れ込む。
その後は、自然と会話もなくなり、理由の分からない気まずさの中で沈黙が広がった。
やがて誰からともなく「そろそろ」となって、その日は解散した。
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