第三章 ピントの合わない放課後(Side 東村寧香)
第16話
高校生は、いつだって忙しない。
10代という、絶対的なアドバンテージの中にいる私たちは、その幸福を全力で謳歌しなければならないからだ。
それは、権利であり、義務でもある――そんな風に思っていた。「※一年のときは」という注釈が付くが。
「ねねちゃん、あとでね~」
写真部の同期である女子生徒の声が廊下に小さく響く。
手をひらひらさせながら、彼女と廊下で分かれた私は、”いつもの場所”へと足を向ける。
その場所とは……
――そう、"連絡通路"である。
C棟から、運動部の部室棟を挟んで、新体育館までを繋げる二階の内廊下。我が写真部員の間でも「光が綺麗に入る」と評判のスポットだが、実際に足を運ぶ者は少ない。わざわざ校舎をまたいで移動する生徒は限られているし、放課後ともなれば、静けさだけが残る通路になる。だからこそ、私は好んでそこへ通っていた。
カメラを構えて立ち止まる私に、すれ違う誰かが「何してるんだろう」という目を向けてくることはない。誰の視線もない空間で、ただ光と影とが交差する瞬間を狙う。そんな孤独な作業に、私は心地よさを覚えていた。
そんな心のオアシスのような場所を求め、ひたすら階段を駆け上がった私の眼前に広がっていたのは――光の粒が集まる場所。
夕刻に差し掛かる時間帯、校舎と校舎の隙間から射し込む陽射しは窓ガラスに反射して幾重もの屈折を生む。そんなガラス越しに見る人型の輪郭は曖昧で、私たちは「写真の中の登場人物」に変わっていく。
私はそういう瞬間を狙って、シャッターを切るのが好きだった。フィルムに焼きつくのは現実の断片でありながら、どこか夢を混ぜ込んだような映像。
――きっと、光と影が戯れているだけなのだろう。だが、私にはどうしても「人の気配」がそこに宿っているように見えてならなかった。
もっとも、そんな殊更に言うほど大げさなものでもない。実際、連絡通路には、私以外にも“常連”がいるからだ。
すうっと、透明な風が通り抜けたように感じた。だが、耳に残ったのは風の音ではない。
牧歌的で、柔らかく、どことなく憂いを帯びた響き。息がかすかに震え、すぐに整っていく。
(この音は……管楽器?)
連絡通路に似つかわしくないはずのその音色が、夕陽の赤に混ざって広がっていった。
辺りを見渡し、音の発生源を目で辿ると、通路の角に、一人の女子生徒が立っているのが見える。
彼女は、都築亜里沙。吹奏楽部の一年生だ。
「私以外の“常連”」とは彼女のことである。
実際、最初に話したきっかけも、活動場所が同じだから。いわゆる「連絡通路仲間」なんだ、と私は勝手に思っている。
私は黙って、彼女の方へ近づいていく。
彼女が吹いていたのは――オーボエ。真剣な目と、譜面台を前にして、息を吹き込む姿。
ショートボブの髪が揺れるたび、楽器の金属部分が小さく光を反射する。
彼女は、もう五月だというのに、厚手の、冬物みたいなセーターを羽織っていた。暑くないのだろうか?
「やっほー、亜里沙」
思わず声をかけると、彼女は肩越しにちらりとこちらを見た。
「こんにちは、東村先輩」
小さくお辞儀を返してくれた彼女に、前から気になっていたことを聞いてみた。
「ねえ、その楽器ってさ、難しいんでしょ?」
「オーボエが難易度の高い楽器だって、ご存知なんですね」
ちょっとくすっと笑う声。知ったかぶりした私に、あえて乗って来る感じが、何だか可笑しい。
「……前にテレビドラマで見ただけの、浅い知識だけどね。あ、ごめんごめん。練習続けて」
私は肩をすくめながら答える。彼女は軽く頷き、また楽器に目を戻した。
その姿を見た私は、指先をミラーレスカメラに添えたまま、動けずにいる。
光と影の粒子に、オーボエの旋律が溶け合っていく。今しかない、この瞬間を切り取りたい。けれど――カシャリという音が、この静けさを壊してしまうのではないか。
迷いが胸を締めつける。
「撮ってもいいですよ」
唐突に、亜里沙がこちらを向いた。
驚きで目を瞬かせた私に、彼女は小さく笑みを浮かべる。
「音楽って、誰かに聴いてもらって完成するんです。だから……そのカメラで残してもらえたら、ちょっと嬉しい」
私は頷くと、その言葉に背を押され、思い切ってシャッターを切った。
微かなシャッター音は、思っていたほど場を乱さなかった。むしろオーボエの音色と溶け合い、どこか和やかに響いた。
カメラのモニターに目をやると、そこにはオーボエを吹く亜里沙が写っている。 液晶の中の彼女は、目を閉じ、まるで柔らかな音の波に包まれているようだった。
彼女は、何事もなかったように演奏を続けている。
流れる旋律が、私の胸の奥をやさしく撫でていく。
光と音の交差点で、二人だけの時間が流れる。
――はずだった。
ふと、私は違和感を覚えた。
通路の窓ガラスに映る自分と亜里沙、その隣に……もうひとつ、見覚えのない影が揺れている。
振り向くとそこに、制服姿の女子生徒が立っていた。
いつからいたのか、まったく気が付かなかった。だが確かに、こちらをじっと見つめている。
私は息を呑んだ。
廊下の蛍光灯の下に、少女がひとり立っていた。
肩より長い黒髪、制服姿。静止画みたいに微動だにしないのに、存在感だけははっきりしている。
――誰?
問いかける声は喉の奥で止まった。こんな、現実味を欠いたような立ち姿を、私は生まれてこの方、見たことがなかった。
都築さんの指も、そこで止まっていた。
オーボエの音が途切れる。
「……あれ、誰ですか?」
彼女が私と同じ方向を見て、そう呟いた。
心臓が一気に高鳴る。――見えているのは、私だけじゃない。
その少女は、ゆっくりとこちらに顔を向けた。
光を吸い込んでしまいそうな瞳に射抜かれた気がして、私は思わずカメラを胸に押し当てた。
レンズを向ける勇気なんて、とても出なかったけど。
「……何か、御用ですか?」
亜里沙が遠慮がちに声をかける。
けれど返事はなかった。ただ、その無言が逆に鮮烈で、空気がひやりと張りつめる。
――その瞬間、頭上の蛍光灯がパチパチ、と小さく弾けるような音を立てて明滅した。
影が一瞬濃くなり、心臓を鷲掴みにされたような感覚に襲われる。
ほんの数秒――いや、一瞬だったかもしれない。
次に瞬きをした時には、もうその姿は消えていた。
私は呆然と窓の外を見やった。
たった今までそこに立っていたはずの女子生徒は、影ごと掻き消えたようにいなくなっている。
足音もなければ、扉が開いた音もしなかった。
残っているのは、まだ胸に残る圧迫感と、微かに冷えた空気だけだった。
「……今の、見たよね?」
自分の声が震えているのが分かった。
亜里沙はオーボエを胸に抱えながら、ゆっくり頷いた。
「ええ……確かに、そこに……」
彼女の視線が窓の方に留まる。だが、そこにはもう何もない。
「……でも、人、でしたよね。先輩のお知り合いですか?」
「ち、違う。私も……初めて見た」
その言葉を口にした瞬間、背中を冷たいものが這い上がっていった。
本来、見えるはずのないものを“見てしまった”ような感覚。
けれど、私だけじゃなく、亜里沙も見た。――なら、幻覚じゃない。
私たちは言葉を失ったまま、数秒間その場に立ち尽くしていた。
窓の外は、先ほどよりも夕陽が傾き、赤から群青へと移ろい始めている。
光も音も、さっきまでの煌めきを失い、代わりに空気の冷たさばかりが際立つ。
「……なんか」
口をついて出たのは、自分でもよく分からない言葉だった。
「すごく、“撮るべき瞬間”だった気がする」
亜里沙がこちらを振り返る。瞳の奥に、まだ揺らぎが残っている。
けれどその唇が、ほんの少しだけ緩んだ。
「東村先輩らしいですね。その反応」
光も影もさっきより薄い。けれど、その代わりに「今の私たち」の輪郭が、やけに濃く浮かび上がって見えた。
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