第12話
――第四クォーター終盤。
現在のスコアは71対74。
何とか食らいついてはいるが、あと一歩相手に届かない。
隣に座る監督が、ここぞとばかりに俺の方を向いて言った。
「森。小田と交代だ」
「はい」
監督は、立ち上がって交代席に向かう俺に、「全力で行ってこい」と珍しく背中を押すようなことを言った。
「ありがとうございます」
顔を見てお礼を言わなければいけないはずなのに、俺はなぜか振り返ることができなかった。
オフィシャルに交代する旨を伝え、交代席に座った俺は、目を閉じて深呼吸をした。
そもそも、俺は何で高校でもバスケを続けようと思ったんだろう。
それはあのとき、二人が心底困ってるように見えたからだ。
――四月、ツネは俺の目の前で、小田先輩から「部員増やしたいんだよ~。頼むから誰か連れてきてくれ~」などと言われ、泣きつかれていた。
「うちのクラス、バスケ経験者いないっスよ多分」
「またまた。そんなことないだろ」
「ホントっスよ! 圭太、誰か心当たりあったりしないよな?」
帰り支度をしながら俺は、本当のことを言うべきか迷っていた。
バスケは中学までで辞めるつもりだった。
だから、ツネに「俺もバスケやってたよ」などと言ったら、流れで入部させられてしまう気がして、何となく言えずにいたのだ。
でも、ここで誤魔化したところで、いつかバレるだろうし、二人とも何か困ってそうだし、高校で続けてみるのもいいかなと思っている自分がいた。
先輩も悪い人じゃなさそうだしね。白状してみるか。
「実は俺、中学までバスケ部でした……」
先輩とツネは同時に、そしてゆっくりとこちらを向いた。
「……え?」
二人は顔を見合わせると、ニヤリと笑った。
ツネは口元に爽やかな笑みを浮かべて、右手を差し出しながら言った。
「ようこそ! バスケ部へ」
あれから一カ月、俺は小田先輩と交代でコートに入ることになった。四月の、あの日のことを思い返すと、先輩がいなければ俺はバスケ部に入っていなかったかもしれない。何だか感慨深い。
「メンバーチェンジ、白!」
オフィシャルの声が、回想をかき消す。
コートから歩いてきた小田先輩は、相変わらずのニヤケ顔だ。
「森、幽霊には会えたか?」
「会いたがってるの、バレてました……?」
「顔に書いてあったわ! オカルトマニアなの、意外だったけどな。……それはそれとして、お前が居残りで頑張ってたの、知ってっからな。あとは任せたぜ」
「はい!」
先輩とハイタッチしてコートに入った俺は、シュートを狙う役割──シューティングガードのポジションについた。
――第四クォーター、残り時間は一分を切っている。
パスを受けたツネは、目線でフェイクを入れて相手を騙し、その脇をドリブルで抜けていった。
気付いたら俺は、ゴール正面、スリーポイントラインの、ギリギリ外に立っていた。
無茶なロングシュート練習をし続けていた、ちょうど、”あの辺り”の位置。
サイドをドリブルで駆けていったツネが、俺に向かってパスを出す。
「圭太、フリーだ! 打て!」
俺は確かに相手のマークから外れていた。
「森! 打つんだ!」
仲間の声に押されて、俺はスリーポイントラインの外でボールを受けた。
迷いはなかった。身体が自動的に動いて、綺麗なワンハンドのシュートフォームを作る。
軽くジャンプしてシュートを放つ。
あの自主練で、何百本も打ち込んだ軌道を、身体が覚えていた。
「――っ!」
渾身の力で放ったシュートは、高く、高く、まるで空を泳ぐ鳥のように弧を描いた。
空気が張り詰める。誰もが、その軌道を追っていた。
スコアは74対74。試合はついに振り出しに戻った。
ベンチが湧く。仲間が俺の肩を叩く。けれど、すぐに試合は再開された。
相手校のポイントガードは冷静だった。ドリブルで時間を刻みながら、残り十秒でファウルを誘ってきた。
笛が鳴る。――フリースロー。
(うそだろ……ここで……!)
会場が静まり返る。一本目、決まる。
74対75。
二本目……リングに弾かれた。リバウンドは味方が取る。
「――タイムアウト!」
甲高い笛の音が、体育館の空気を裂いた。
ブザーが鳴る直前、監督の要請でタイムアウトが宣告されたのだった。
残り時間はたったの二秒。一点ビハインドで、攻撃権はこちらにある。
ベンチに引き上げると、監督がホワイトボードを片手に指示を出した。
「森。最後はお前が打て」
「えっ……」
「ダメ元でいい。”ロング”で狙え。狙わなきゃ、何も起きない」
周囲の視線が一斉にこちらを向く。レギュラー陣の、汗と熱気にまみれた眼差し。
(この場面、俺でいいのか?)
「……そんな大役、自分でいいんですか?」
自信なさげな俺の問いを聞いた監督は、ニヤリと笑って言った。
「お前、気付いてなかったのか……? こんなに離れた距離からのシュートに限って言えば、お前以上に期待できる奴なんて、うちの部にはもう他にいないんだよ――」
思わず、はっとした。
その監督の言葉を聞いて、「この人たちのために、是が非でもシュートを決めなくちゃいけない」と強く思った。
そして、ただ、静かに頷いた。
「はい」
立ち上がる。足が少し震えているのが分かった。
コートの向こう側に広がる観客席を見上げる。
そこに、あの子の姿はない。けれど、どこかで見ていてくれる気がした。
”どうせ打つなら、届くと信じてみたら?”
脳裏に、あの優しくて不器用な声が響いた。
振り返る。だが当然、そこには誰もいない。
でも――
たしかに、聞こえた気がしたんだ。あの声が。
(名無しさん……)
旧体育館の片隅、あの、忘れ去られた二階席の暗がりで、君はこっそり俺を見守っていてくれた。
誰にも気づかれず、誰にも触れられない存在だった君は、それでも確かにあの場所に“いた”。
(君がくれたもの――ここで証明してみせる)
深呼吸。胸に手を当てて、一度鼓動を確かめる。
今なら分かる。この震えは、恐怖じゃない。期待だ。
彼女が教えてくれた、未来への、淡い期待なんだ。
試合が再開された。
ボールがインバウンドで回ってくる。
受け取った瞬間、全ての動きがスローモーションに見えた。
世界は、ゆったりとした時間で包まれていく。
コートの端。自陣から、相手ゴールまで約十八メートル。
普通なら、絶対に届かない。けれど――
”信じて”
再び、声がした。
俺は肩を引き、視線をゴールの遥か先へ放った。
「――いけぇっ!」
試合終了を告げるブザーが鳴った。だが、未来はまだ決まっていない。
「生きてる意味なんてない」とか、「頑張ったところで何もいいことない」とか、確かに俺だって否定はしきれない。そんなことしょっちゅう思ってるし、バスケを始めてからも、辛いと感じることだらけだった。
それでも――
それでも、君と過ごしたあの時間だけは、俺の世界に光が差していた気がする。
ほんの少しだけでいい。「生きてたら、こんなこともあるんだ」って感じてほしいだけなんだ。
「ヘボい補欠にだって、ときには奇跡が起こるんだぜ」って見せてあげられたら、それだけで十分なんだ。
何でそうしなければいけないかなんてわからないけど、君がいるはずもない二階席に向けて、思いを馳せすぎている。
こんな思いで必死になってコートに縋り付いている俺は、一体何なんだろうって、自分でも思う。
もし、俺がロングシュートを決めたら、君に見てもらえるだろうか。
そんな瞬間が、もし仮に来たとしたら、君はどんな顔をするんだろう?
小さく拍手をして、ささやかに喜んでくれるだろうか。
いつもみたいにほんの少しだけ目を細めて、「ガッツポーズなんてして、おかしな人」って笑うのかな。
歓声を挙げたり、周りの人とハイタッチしたりはしないだろうな。わかってる。
そんな思考が、脳内の回路を一瞬にして駆け巡った。
ここから先のことは、今でも夢みたいな出来事だったと思ってる。
虹みたいな孤を描いて、空中を進んでいくボール。
叫んでいるツネも、驚いた顔の選手たちも、思わず席を立った監督や小田先輩も、まるでドローンで空撮している映像みたいに、全てが俯瞰の位置から捉えられる。
目の前に広がる全ての光景が、美しい芸術品のように止まって見えた。
『楽しい? バスケットボール』
かの日の彼女の問いかけが、胸の中でリフレインする。
あのときは、冴えない言葉しか返せなかった気がする。けど、今なら、自信をもって答えられる気がした。
(めちゃくちゃ楽しいよ。バスケ、続けてよかった。君に会えてよかった――ありがとう)
ボールが、リングにゆっくりと吸い込まれていく。
天窓から差した溶けるような夕日が、会場全体を眩しすぎるほど明るく照らしている。
コートから、ベンチから、客席から、会場のあちこちから歓喜の声が溢れ出した。
一気に身体から力が抜けて、思わず、俺はその場に倒れこんだ。
ツネが笑いながら駆けよってきて、言った。
「圭太ー! 県予選の、しかも一回戦で泣くなよ!」
俺は、自分が泣いているのに気が付かなかった。
いや、今でも正直気付いていないんだろう。
あのとき、俺はシュートを決めた嬉しさで泣いたのか、バスケが楽しくて泣いたのか、「彼女にもう直接お礼を言うことができない」という虚しさで泣いたのか。
きっとこれからも、その答えなんて知ることができないまま、生き続けていくんだろう。
でもそれでいいんだと、今は思う。
あのロングシュートが届いたこと――それだけは、きっと本当のことだから。
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