第11話

 角度的に、時計が見えない。けれど、夜の闇が去っていく気配だけははっきりと感じた。

 午前五時台、もしくは六時くらいだろうか。

 静けさというより、無音に近い。誰もいない体育館。カーテンの隙間から入り込む、朝の淡い日の光だけが、床を照らしている。

 俺は、ただ黙って、床に寝転んでいた。隣には、彼女がいる。何を話すわけでもなく、ただ二人で、長い沈黙の中にいた。

 でも、不思議と居心地は悪くなかった。言葉よりも、何かもっと大切なものがここにはあった。

 彼女は目を閉じて、耳鳴りのするような沈黙に、心の底から浸っているようだった。

 体育館のどこかから、まだ、誰かが練習をしている音が聞こえる気がする。でも、それは錯覚だ。今は誰もいない。俺たち以外には。

「眠くない?」

 そう尋ねると、彼女は小さく首を振った。

「ううん。そういうの、もうあんまり感じなくなってるから」

 その言葉を聞いて、俺は、胸が痛んだ。

 照明は落としたけれど、窓から差し込む、微かな朝日だけで顔が見える距離だった。なぜだか今は、彼女の顔がいつもよりはっきり見える気がした。

 まるで、最後の灯火が強く輝いているかのように。

 俺は、スリーポイントエリアを指さして言った。

「あの辺、覚えてる? 最初に、君とちゃんと話した場所」

 俺がぽつりと言うと、彼女は頷いた。

「うん、覚えてる。私が、『楽しい? バスケットボール』って聞いたよね」

「そうそう。……まさか、幽霊だったとはね」

「幽霊じゃないし。”魔女”だよ」

 彼女が軽くむくれるふりをしたので、俺は笑ってしまった。

 その笑い声が、体育館の広さを強調するように空気に溶けていく。

 やがて、再び静寂が訪れる。

「ねえ、圭太くん」

「ん?」

「あとどれくらい、こうしていられるのかな」

「……わからない」

 本当はこのとき、もうすぐだって気づいていたんだろう。

 彼女の輪郭は少しずつ、でも、確かに曖昧になってきている。さっきまでは見えていた足元が、今はもう薄靄のようになっている。

「でも、もう少し……こうしていようよ」

 俺が言うと、彼女は小さく笑った。

「うん。もうちょっとだけ」

 その言葉が嬉しくて、でも怖くて、俺は言葉を飲み込んだ。

 さっきまで出ていた下弦の月は、今はもうどこかへ行ってしまった。


「それから、どうなったの?」

「『ライスがないと無理なんだー』とか言って、咽び泣いてたよ」

「ほんと面白いね、その、常川くんって人」

 体力も底をつき、壁にもたれて座り込んだ俺らは、二人して他愛もない話をしていた。

「週末さ、インターハイの県予選なんだ」

「そうなんだ。勝てそう?」

 彼女は思い耽るような表情を浮かべ、窓の外を見ながら聞いてきた。

「どうだろう。うちの学校だと、ベスト16に残れたら御の字だと思うけど」

「弱気じゃない? 全国目指そうよ」

 ポジティブすぎる発言を聞いて、俺は笑ってしまった。

 彼女は本来、とても前向きな子なのかもしれない。まだ見ぬ一面を見れた気がして、少し嬉しい。

「そうだね。でも、そもそも俺は多分試合に出れない。ツネや先輩頼みだ」

「試合が始まる前から諦めるんだ?」

 彼女の問いに対して、何も答えることができなかった。

「……」

 無言の時間が、耳鳴りをいざなう。

 俺は今まで幾度となく”とある言葉”を、言おうと思っては飲み込んできた。

 今回も言おうかどうか迷ったが、なぜか、これが”最後のタイミング”になる気がした。

 言うしかない。

「あのさ、もしよければ、試合見に来てくれないかな。君が来てくれたら、俺……」

 彼女は少し意外そうな顔をして、こちらを向いた。

 それから、悲しそうな笑みを浮かべて、静かに言った。

「誘ってくれてありがとう……でも、ごめん。行けないの。私は、この学校から離れることができないから」

 彼女が何を言っているのか、一瞬、理解できなかった。

「え――? それじゃあ、まるで本当に”地縛霊”みたいじゃないか……」

「みたいじゃないかも何も、それが真実だもの」

 その言葉に対して俺は、何も返すことができなかった。

 彼女は、他人を思いやれる人だ。正直、喋り方は平坦だし、時々見せる笑顔もどこかぎこちない。第一印象として、冷たい印象を受けるのは事実だろう。けど彼女は、俺の一人きりの自主練を気にかけくれていた。俺は、彼女の中にある”まごころ”に、触れることができたつもりでいた。

 普通の人間ではないことなんて、心のどこかでわかりきっていたはずなのに。それとも、ただ”わかったつもり”になっていただけに過ぎないのだろうか。

「時間よ。短い間だったけれど、ありがとう」

 彼女はふいにそう言った。

「急にどうしたの?」

 彼女は一瞬伏せ目がちになった。本当のことを言うべきか迷っているようだった。

 しかし、顔を上げて彼女は告げる。

「私、もうすぐ消えるの。この世界から完全に」

「……消える? どういうこと?」

「文字通りの意味よ。私は”あなたたち”と触れ合ったことで、もう満たされてしまったみたい」

「君が何を言っているのかわからない……」

 自分でも驚くほどかすれた声だった。喉がうまく動かない。心が追いつかない。

「……ごめんね。私、自分でもよくわからないんだけど……たぶん、そういう存在なの。忘れられてここに取り残されたけど、あなたと話して、笑って、楽しかったから……それだけで、もういいのかもしれないって思えたんだ」

 彼女は微笑んでいた。どこか、吹き抜ける風のような、透明な笑みだった。

「なんだよ、それ……」

 小さな声が勝手に漏れる。ふざけんな、って心の中では叫んでるのに、唇は震えてそれ以上の言葉を紡げない。

「ありがとう、圭太くん。わたし、ずっと誰にも見てもらえなかったから。存在を認識されることも、話しかけてもらうことも、もうないと思ってた」

「じゃあ、これからもここにいればいいじゃん――! ずっと……ずっと、ここにいてくれよ」

 言ってから、怖くなる。

 これが、彼女を縛りつけることになるんじゃないかと。

 自分の「気持ち」が、彼女の「消える理由」を否定してしまうんじゃないかと。

 でも、彼女はゆっくり首を振った。

「ありがとう。でも、それじゃダメなの。私は本来、ここに“いない”はずの人間だから」

 彼女は、静かに、でもはっきりと告げた。

「あなたがシュートを決めるの、楽しみにしてる。安心して。ちゃんと見てるから」

「でも君は……」

「行けないだけ。見れないわけじゃない」

 そう言って、彼女はひとつ深く呼吸をした。

 まるでこの空気を、匂いを、声を、すべて記憶に刻みつけるように。

「最後に、お願いしてもいい?」

「……なに?」

「わたしのことは、もう忘れて。ちゃんと、あなただけの人生を生きて」

 目の前の少女は、ただの幻なんかじゃない。

 でも、たぶん誰にも触れられず、誰にも記憶されていない。

 それでも、“ここにいた”と、証明しようとするのであれば、俺が覚えているしかないだろう。

 彼女をこれ以上悲しませないために、俺はもう、嘘をつくことしかできなかった。

「わかった……わかったよ。必ず忘れる。ただ、君の記憶と、”本当の名前”のこと。それだけは、ごめん。一緒に探せなくて、ごめん」

 そう答えると、彼女はふっと笑った。まるで、それがいちばん嬉しい答えだとでも言うように。

「ううん。いいんだよ、そんなの。じゃあね、圭太くん――ほんとに、ありがとう」

 窓から差す、柔らかな日の光に包まれて、彼女の存在はどんどん曖昧になっていった。

 光の粒がこぼれるように、ゆっくりと、彼女は目の前から姿を消した。

 ここに来る前に感じた”不可解な予感”は、予想を大きく上回る形で的中した。

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