第10話

 俺たち二人はここ最近、どちらかが言い始めたわけでもないのに、なぜだかこうして顔を突き合わせている。

 彼女は何が楽しくて、俺と一緒にいるのだろう。

 俺はシュートを打つ手を止めて、体育館のステージの方を見た。

 彼女はステージに腰かけて、自由気ままに、足を宙に投げ出している。

 お互いの視線が重なった。

「……どうしたの?」

 彼女は毎度のごとく、怖いくらい無表情だった。あの表情で見つめられると俺は、ただ苦笑を浮かべることしかできない。

「君はさ……あの、初めて会った日、どうして俺に声をかけたの?」

「……うーん、上手く説明するのが難しいわ」

「確かに。そうだよな」

 何となく照れを隠したくなって、視線を別の方向に逸らした。

 それを見た彼女は少しだけ笑みを浮かべて、ゆっくりと言葉を紡いだ。

「多分、何かに真剣になっている人、『頑張ってる人』のことを、知りたくなったんだよ。二階席から見ていて思った。『何でこの人は、毎日毎日、飽きもせず同じことを、それも、あんなに楽しそうに続けられるんだろう』って。それで、気付いたら声をかけてた。私はもう”努力”することなんてできない。そういうものとは無縁の、遠い場所に来てしまったから」

 相変わらず、変なことを言う人だなと思った。

「何言ってるのさ。君だって、今日は自分の意志でこのコートに入ってきて、シュートまで打った。しかも決まったんだぜ? 普段やらないことを率先してやったんだ。その時点で、”努力”してるじゃないか」

 彼女はそれを聞いて一瞬不意を突かれたような顔をしたが、頬を緩めてくすくすと笑い出した。

 世にも珍しいものを見た気分だ。

「ありがとう。あなたのそういうところ、好きよ」

 彼女からお礼を言われると、むず痒くなる。

 ステージから顔を背けて、俺はゴールに向き直った。

「どういたしまして」

 言葉と同時にシュートを放った。

 ――その瞬間。

 放物線を描くはずだったボールは、なぜか空中で静止した。

「えっ⁉」

 俺は思わず声をあげた。

「これは……」

 名無しさんも立ち上がって、その光景に見入っているようだった。

 ボールは物理法則を完全に無視して、ふわふわと空中に浮いている。

 ――ボールの周りで、何か、蝋燭の火のようなものが揺らめいた。

 目を凝らしてみると、ボール全体が、紫色のおぞましいオーラのような光を帯びている。

「なんだよ、これ!」

 驚いた俺は思わず、声を張り上げた。

 すると、その状態でボールが小刻みに振動し始めた。

「危ない!離れて!」

 彼女がこちらに向かって叫んだ。

 俺は、何が何だかわからないまま、咄嗟に体育館の入り口方面に向かってダッシュした。

 ――バコンッ!

 その刹那、小刻みに震え続けたボールは、我慢の限界を迎えたとでも言うかのように、地面に向かって思いっきり叩きつけられた。

 ボールはふたりの間を跳ねながら、やがて何かに吸い寄せられるようにして、壁際の片隅に転がって止まった。

「何だったんだ、今の……」

 俺が歩き出そうとした、その瞬間――。

 ガンッ!

 体育館の天井に響くほどの大きな音。何かが、激しく閉じる音だった。

 全身がびくっと跳ねた。真後ろだ。さっきトイレに行った際に開け放しておいたはずの出入口が、まるで誰かが力任せに叩きつけたように、音を立てて閉まっていた。

「……風?」

 いや、そんなレベルじゃない。いまの音と勢いは、人が全力で閉めたみたいだった。

 急いでドアのハンドルを引く。……開かない。鍵は、かかっていないはずなのに。何度も、強く引いてみるけれど、ビクともしない。

 背中に冷たい汗が伝った。

「……嘘だろ」

 そのとき、背後でカタ、と何かが転がる音がした。振り返ると、ゴール下に置いていた予備のボールが、誰も触っていないのにコトコトと転がっていく。まるで、誰かが見えない手で弄んでいるみたいに。

 そして、次の瞬間。

 ――ガラガラッ!

 突如、体育館の隅にある備品倉庫の引き戸が勢いよく開いた。誰も近づいていないのに、中から、バレーボールやハンドボール、フットサル用の四号球等、倉庫内のありとあらゆるボールが飛び出し、次々とコートに散らばっていく。

「な、なんだよ……!」

 さらに跳び箱の段がひとつ、重たい音を立てながら勝手に滑り出てきた。ガタン、と倒れたかと思うと、そのまま意思を持ったかのように俺の方へ突っ込んでくる。

「うわっ!」

 慌てて横に飛び退くと、今度はボールカゴがギィィと軋んで動き、車輪を高速で回転させながら一直線に迫ってきた。まるで、見えない何かに押されているみたいだ。

 次から次へと備品が唸り声をあげるように動き出し、体育館全体が生き物になったかのようだった。

 俺は、間一髪でそれらを避けきったものの、気付くと自らの膝に、思わず手をついていた。

「おいおい……冗談だよな?」

「…………」

 彼女が、さっきと同じ位置で、じっと黙って立っていた。

「……ねえ、名無しさん。もしかしてこれって」

 問いかけると、彼女はふいに視線を逸らした。少しだけ、戸惑ったように。

「……今の、全部私がやったの?」

 彼女の声は震えていた。これまで聞いたことのないトーンだった。

「名無しさん、何も心配しなくていい。だから、落ち着いて話して。今のは……」

「わからない……もっとここにいたい、って思ってた。そしたら、勝手に……あんな風になったの」

 俺はもう一度、ドアに手をかけてみた。だがやはり開かない。ステージ側の壁上方に設置された時計に目をやると、すでに四時を過ぎていた。

「開けるのは難しそうだ。まさか、君にこんな力があったとはね……」

「……ごめん」

「気にしなくていいさ」

 正直「これからどうしよう」と思ったけれど、それ以外に、ネガティブな感情は湧いてこなかった。

 この一連の現象は、彼女が見せた、初めての“わがまま”だったからだ。

 しかも、言葉じゃなくて、感情の暴走として。

 こうでもしなければ、自分の願いを通せなかったのだ。そんな彼女を思ったら、無下にはできなかった。

 ふう、と大きく息を吐いた。

「……じゃあ、仕方ない。乗るよ、君の気まぐれに」

 ボールを拾って戻る。彼女はその場に立ったまま、きまり悪そうに目線を逸らしていた。

「でもひとつだけ言っとく。せっかく閉じ込めたんだから、徹底的に付き合ってもらうよ。とことんまで練習するぞ」

「……いいの?」

「もちろん。どうせなら、少年漫画でしか見たことないような、“地獄の特訓”ってやつを体験してみようじゃないか」

 俺がそう言うと、彼女の顔が、少しだけほころんだ。

「ありがとう」

「頼むよ、“監督”」

 体育館の中には、ステージ上の明かりと、ふたりの笑い声だけが広がっていた。

 そしてその夜、俺は生まれて初めて、“限界まで練習する”ということの意味を知ったのだった。

 

 体育館の空気は冷たく、静寂に包まれている。

 だが、俺の胸の奥は熱く燃えていた。

 ひたすら、シュートを放ち続ける。

 ワンハンドで放つボールは、何度もリングを目指して放物線を描く。

「もう一回」

 自分自身に言い聞かせて、次のボールを掴む。

 壁に当ててバウンドさせ、リズムを確かめる。

「……いける、まだ」

 シュートを打つたびに、呼吸は荒くなる。息が上がるたびに体は震えるけど、止まれない。

 繰り返す動作の中で、体は徐々に感覚を取り戻していく。

 シュートフォームは少しずつ滑らかになり、指先の感触も確かなものになる。

 ふと横を見ると、そこには彼女がいる。

 幽かな笑みを浮かべ、俺のシュートを見守ってくれている気がした。

”もっと、もっとだ”

 彼女の声は聞こえないけれど、確かに心の中に響く。

 その声に押されて、俺はまたボールを手に取り、シュートを繰り返した。

 時折、リングに弾かれたり、ネットを掠めて外れたりもする。

 だが、手が止まることはない。

 ひたすら、ひたすらにシュートを打つ。

 時計の針は進み、夜の気配が遠くなり始めても、俺はボールを放ち続けていた。

 疲労も痛みも消えていくような集中状態。

 このときの俺は、ひたすら、ゴールを狙うことだけに意味を感じていた。

 ――この練習が、俺と彼女の、最後の時間になることを知らなかったから。


 ボールをリリースするたびに、心臓の鼓動が一瞬だけ大きく鳴る。

 リングに届いた瞬間だけ、世界が少しだけ静かになる気がした。

 何度も外し、ボールが床に跳ね返る音が、冷たい体育館の静寂を一層際立たせる。

「まだ、足りない」

 自分の声が自分を叱咤する。

 汗が額から滴り落ち、腕の筋肉は悲鳴を上げている。

 呼吸は浅く、時折肩で息をする。

 それでも、手を止めることはできなかった。

 彼女がここにいるから。

(――あの時話した、”夢”を実現する瞬間のこと、シュートを決める約束のこと。信じてくれている。暗闇の中、ぼんやりと見える彼女の姿が、唯一の拠り所だ。)

 そんな風に、声にならない言葉で自分に言い聞かせる。

「負けないでね。圭太は」

 聞こえるか聞こえないかくらいの、微かな声で彼女は呟いた。

「やれる、まだやれる」

 背筋を伸ばし、もう一度構える。

 ボールを両手で包み込み、スリーポイントのラインの外へと走る。

 目標はひとつ。リングの中心だ。

「いけ――!」

 放たれたボールは、真っ直ぐに、確かにゴールへと吸い込まれていく。

 小さな歓声が心の中でこだました。

 気付けば、窓の外が少しずつ明るくなり始めていた。

 夜の静けさを破り、朝の光が体育館の床に差し込む。

「今日も、ここまでか」

 俺はゆっくりと息を吐き、満足気につぶやいた。確かな手応えがあったのだ。

 今度こそ、あの奇跡を――。

 そんな思いを胸に、俺は両の手でボールを握りしめた。

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