第9話

 窓に取り付けられた防球格子の隙間を、真っ暗な夜の闇が覆っている。

 その闇に、下弦の月の明かりだけが、僅かに滲んでいた。

 午前三時、俺はなぜか、旧体育館に来ていた。

 

 昼寝をしたせいか真夜中に目が覚めてしまい、そこから再眠することもできなかった。そんなとき、なぜかふいに「夜の学校に行こう」と思ったのだ。

 自分でも上手く説明できない、不可解な思い付きだ。「今後の学校生活を左右する重要な出来事」が起きる予感があった。行かないと後悔してしまう気がした。

(学園ホラーだと、「亡くなった生徒の声に呼び寄せられて、無意識の内に夜の学校へ」って定番だよな。俺のこの行動も、”彼女”に呼び寄せられてのことだとしたら――)

 家をこっそり出て、学校に向かうまでの道中は、そんなことを考えたりしていた。結局、今となってはどうだったのか、見当もつかないけど。

 体育館に着いた俺は、素早く裏口に回った。以前ツネが、「旧体育館は、裏手の小窓の鍵が壊れてる。外から戸をガタガタ揺らせば、簡単に侵入できるんだぜ」と自慢げに語っていたのだ。

 「まさかね」とは思いながら、聞いたことをそのまま実践。すると――あっさり開いた。高校生にもなって、不法侵入に手を染めるとは。

 中に忍び込んだ俺は、軽く準備を済ませると、慎重な足取りでコートに入った。

 ボールを手に取り、いつものようにシュートを打つ。

 美しい軌道を描いて、リングに吸い込まれるボール。今日は調子がいいかも。

 真夜中の学校で、いつもと同じような行動をとるというのは、非日常と日常が混ざり合った奇妙な感覚になる。

 月の明かりだけを頼りに、ボールを拾いに行こうした次の瞬間、突如、ステージ上のライトが点灯した。

(まずい――! 誰か人がいるのか!)

 慌てて逃げようとした、そのとき――。

「また少し右にズレてる」

 声がして、思わず振り返る。

 彼女が、いつの間にかステージの上に立っていた。

 スカートの裾を揺らしながら、じっとこっちを見ている。

「こんばんは、圭太くん」

「名無しさん――」

 安堵の気持ちが半分、「なぜ、こんな時間に」という気持ちが半分。

 ただ、心のどこかで、彼女がこの時間ここにいるということに、納得してしまっている自分もいた。

「驚いた? 随分早起きだね」

「脅かすなよ……心臓飛び出るかと思った。君こそ、何でこんな時間に?」

「言ったでしょう? 私は”魔女”だって。実態としては、もう”地縛霊”と言った方が正しいかもしれないけどね」

 深い付き合いではないけれど、二週間近く交流を続けてきたからわかる。彼女は、普通の人間ではない。冗談めいた口調で言っているけれど、”超常的な存在”だということを、俺はほぼ確信している。

 目にも留まらぬ速さでの、フロアを跨いだ瞬間移動。「過去の記憶」がない点や、深夜の旧体育館にいるということ。それに、これは少し無理があるかもしれないが、先輩から聞いた幽霊の噂だってある。

 信じても無理ないでしょ?

「そうだったね。君は、本当にずっとここにいるんだね……じゃあさ、お願いだ。少しだけバスケのコツを教えて」

「やったことないからわからないし。それに、あなたが自分の力で気が付かないと意味ないわ」

 彼女は目を細めて、少しだけ微笑みながら言った。

「手厳しいね」

 もう一球、ボールを構えてみる。

 足を止めて、肘を引いて、ためてから放つ。

 ガコンッという音。ボールはリングに当たって、またも外れた。

「うーん、イメージでは入ってたんだけどな」

「イメージと体がズレてるの。目と手の感覚が、うまくつながってない」

「めちゃくちゃ的確じゃん……」

 ボールを拾いながら、俺は彼女に声をかけた。

「名無しさん、俺のシュートをもう少し近くで見てくれない?」

「……いいの? 私が近くにいたら、緊張して、もっと外すかもしれないよ?」

「大丈夫。外せば外すほど上手くなれるはずだから」

 彼女は少しだけ口元を緩めて、ゆっくりと歩み寄ってくる。

 自分の足で、初めてコートの中に入ってきた。

「じゃあ、ここから見てる」

 俺は再び構えた。

 彼女の視線を感じながら、ボールを放つ。

 今度は――リングに触れずに、ストンと吸い込まれるように入った。

「……入った」

「入ったね」

 息をついたあと、ぽつりとつぶやいた。

「なんか、不思議な気分だよ。君に見られてると、大体上手くいくんだ。外すときもあるけど」

「気になるからでしょ。誰かに見られてるって、それだけで感覚が変わるんだよ」

「そういうもの?」

「うん。だから、見てあげてるの」

「監督みたいだね」

「じゃあ、監督でいい。名前の代わりに、そう呼んで」

「それはそれでややこしいでしょ……」

 ふたりの間に、柔らかい空気が流れた。

 俺はふと、彼女の立っている位置に目をやった。

「そういえば、前はあっちの壁の近くだったよね。今日は随分近い」

「近づきすぎた?」

「ううん。むしろ嬉しいよ。そこにいてくれてありがとう」

 彼女は少し黙って、それから静かに言った。

「……私、誰かに“いてほしい”って思われていいのかな」

「当たり前じゃないか。君は間違いなく今ここにいて、俺と接してる。コミュニケーションをとっている。人って、そういうことの積み重ねで変化していくんじゃないかな。君はどう思うの?」

「……そうだね。その通りだと思う。おかしいよね、『ここにいてはいけない』なんて思うこと自体がさ」

 彼女は、つかえながらも、懸命に言葉を紡いでいた。こんな風に感情的になっているのは、初めて見た気がする。

「だから、これからもコートの中にいてよ。俺もここにいるから。自主練して待ってるから」

 そのとき、不意に手を滑らせてボールが落ちた。床にバウンドして転がっていく。

 彼女がそれを拾い、何気ない仕草でボールを構えた。

「シュート、打ってみる?」

「……試してみたい。けど」

「けど?」

「外したらどうしよう?」

「『入るって信じてなかったら入らない』って、君が教えてくれたじゃないか」

 彼女はほんの一瞬だけ、本当に笑った。

 声の出ない、でも確かな笑顔だった。

「いくよ!」

「いけ!」

 彼女は、「バスケのことを何も知らない」と言っていた割に、とても美しいジャンプシュートを放った。

 大きな孤を描いた彼女のシュートは、何一つ音を立てずに、ゴールに吸い込まれていく。

 彼女は思わずこっちを向くと、「入った!」と言って、小さくはしゃいでいた。

 俺はとても嬉しかったけれど、素直にはしゃぐのは、なぜか照れくさかった。だから代わりに、左手でサムズアップを返す。

 ふたりの距離が、またひとつ縮まった――そんな感覚だけが、今も胸の中に残っている。

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