第8話

 降水確率八十パーセントにも関わらず、傘を忘れるという致命的なミスを犯した俺は、絶望、そして憔悴しきり、ゾンビのような足取りで校内をふらついていた。

(やらかしてしまった……俺はなんて愚かなんだ。濡れたくない、濡れたくない……)

 心の中でそんなことを呟きながら、購買で買ったコーヒー牛乳片手に、ひたすら渡り廊下を行く。

 校舎の外は、濡れたアスファルトの匂いで満ちていた。空は、墨汁を薄めたような灰色に沈んでいる。

 強い雨粒が、校舎の壁やガラスを叩きつけ。辺りには絶え間ないざわめきが響いている。

 そんなこんなで、気付いたら俺は旧体育館に辿り着いていた。

 無意識に「小雨になるまで体育館で時間を潰そう」とでも考えていたのだろうか。

 ――せっかくの部活オフなのに。

「みんなが休んでいる間にも練習か……相変わらずだな」

 低く響く声に顔を上げると、靴箱の前に監督が立っていた。

 ジャージ姿で腕組みをし、視線は鋭い。体格もあり、存在感は圧倒的だ。

「監督、こんにちは」

「おう、森。自主練か」

「実は、傘を忘れてしまったんです……時間を潰そうとして、気づいたらここに来てました」

「身体が疼いてる証拠だな。運動したくて仕方ないってことか」

「……自分、そんなバスケ馬鹿じゃないですよ」

 監督は軽く笑みを浮かべると、腕組みを崩してこちらを見つめた。

「まあ、ほどほどにな。”休むのも練習の内”だ。しっかり休め」

 その言葉には、冗談めかした響きはなく、きっちりと選手を見守る厳しさが含まれていた。

 監督は静かに体育館を後にした。その背中は頼もしくもあり、威圧感すら漂っていた。

 この人に認められたい――初めて自然に思う。

 だが、今日は自主練をしに来たわけではない。ここに来れば”彼女”がいるような、そんな気がして――。

(”彼女”?)

 壁に寄りかかって、ストローに口をつける。

 コーヒー牛乳の甘くほろ苦い味が、口の中いっぱいに広がった。

 なぜ無意識の内に、自分がこの場所に来てしまったのか。その理由が少しわかった気がする。

 ふと、左斜め後ろ。観戦席の方向から視線を感じた。

 何気なくそちらを向いてみると、そこには”彼女”が、絵に描いたような直立不動の状態で立っていた。相変わらず、怖いくらいの無表情を顔に貼り付けて。

「……」

「……こんにちは」

 沈黙が続きそうだったので、軽い会釈と共に先制して挨拶をしておく。

「こんにちは……圭太くん。今の、監督さん?」

「あぁ、そうだよ」

「どんな人?」

「基本厳しいけど、生徒のこと気遣ってるのが伝わってくるし、いい先生だと思うよ。どうして?」

 彼女は何かを言いかけて、口をつぐんだ。言い淀んでいるようだった。

 数秒間考えこんだ後、静かに呟く。

「変な既視感があったの。この場所であの監督さんが誰かと話してるの、前にも見たことある気がするなって」

「……どういうこと?」

「ただの夢の話だよ? 友達といるときに似たような光景を見たと思うの。でも、それがどんな場面だったかはよく思い出せない」

「君が”友達”の話をするなんて珍しいね。どんな子?」

「幼馴染。私なんかのことを気にかけてくれる、すごくいい子。でも、彼女とは夢の中でしか会えない」

 彼女は続ける。

「私、普段何もやることがないときは存在そのものを消しているの。人間でいう”睡眠”みたいな感じ」

 そんな物言いをされると、「彼女は、本当に、人間ではないみたいだな」と思ってしまう。

「”睡眠”か……」

「そう。それで、睡眠中は、夢を見ることもあって。前に美術部の話したでしょう? あれも、実は夢で見たこと。私と彼女は夢の中で、同じ制服を着てこの学校に通っていたわ……毎日毎日、他愛もない話をして笑い合っていたの」

 彼女は目を伏せて、以前見たという幸福な夢について話し出した。

 こんなに饒舌に、楽しそうに何かを語る彼女を見たのは初めてのことだったので、少しだけ驚いた。

「そんなことがあったんだね」

「ええ……でも、私は彼女の名前すら忘れてしまっている。それに、実際にあったことなのか、ただの夢なのか、今となってはその判別すらつかない」

「なるほどね。でもきっと、その夢に君という存在に関するヒントが隠されているのは間違いないんじゃないかな」

 彼女はゆっくりと顔を上げた。

 その瞳は、今日の雨空と同じ色をしていた。

「……圭太くん。もしあの夢が本当に過去の出来事だとしたら、私は一体、いつからこの姿になったんだろう」

「……」

 返す言葉が、すぐには見つからなかった。

 体育館の天井に反響する雨音が、間を埋めるように響く。

 彼女は続ける。

「夢の中の私は、間違いなく生きていた。足音もしていたし、他者から存在を認識されていた。今とは違ってね」

「……」

「ねえ。私がこのまま全てを思い出したら――どうなると思う?」

 問いかけは穏やかな声色なのに、その奥に潜むものが分からなくて、背中がひやりとした。

 外では、突風に煽られた雨粒が窓を叩く音は一段と激しくなる。

「さあ……でも、思い出した方がいいんじゃないか? それが実際にあったことだとしたら、君は全ての記憶を失ってもなお、その思い出だけは”忘れたくなかった”ということになる。本当に輝ける、大切なものだったんだよ。きっと」

 自分でも、なぜそう答えたのか分からない。

 ただ、言葉にしてしまった瞬間、彼女の口元がほんの少しだけ緩んだのを見た気がした。

「……そうね。きっとそう」

 それだけ言うと、彼女は柵に背を預け、灰色の校庭を静かに見下ろした。

 ふいに、雲の切れ間から一筋の、ビームのような光が差し込んだ。

 体育館の床に淡い金色が広がり、濡れた窓ガラスの水滴が小さく瞬く。

 名無しさんは、その光を受けるようにそっと目を細めた。

 俺たちは何を話すでもなく、ただただそれを眺めている。

 二人して、何を考えるでもなく、きっとただぼーっとしていただけなんだろう。

 雨音は、いつのまにか遠くへ退いていた。

「……雨、止んだね」

「……だね。そろそろ帰るよ」

「圭太くん……」

 彼女は自分の胸に手をあてて、僕の名前を呼んだ。

「どうしたの?」

「あなたにも、忘れたくない夢ってある?」

「夢か……普段あんまり夢見ないんだよね、俺。寝つきいいからさ」

 彼女は「ふふ」と、小さく笑った。

「寝つきとか聞いてないし。じゃあ、”夢”は……?将来のこととか、そっちの。未来の方の”夢”――」

 彼女の問いはいつだって抽象的だ。でも、普段俺はあまりこういう発想をしないから、たまには悪くないとも思う。

「そっちもまだ全然考えてない。でも一つだけ挙げるなら、今はバスケが……いや、贅沢は言わない。とにかくシュートだけはもっと上手くなりたいな」

「プロになりたい?」

「いや、俺なんて全然そんなレベルじゃない。大学でプレイすることすら、夢のまた夢だよ。それはわかってる。だけど、ただみんなの力になりたいんだ。中学の頃みたいに、ただの傍観者で三年間終えたくない」

「……」

 彼女は、どこか感慨深さを感じているような、それでいて穏やかさを含んだ顔をして、自分の足元を眺めている。

「なら、次の試合でシュートを決めて。――私との約束」

「え?」

「圭太くんが本当に傍観者で終わりたくないなら、それを形にしてほしい……たった一度だけでいい。必ず決めてね」

 不思議と、その言葉に逆らえない気がした。

「……わかった。絶対決めるよ。次の試合で」

「ほんとに?」

「うん。外したら……笑ってくれていい」

 彼女は一瞬だけ目を丸くしたが、すぐに、どこか安心したように微笑んだ。

「今の私にとって、大切なもの……それは、もうあの夢だけじゃないのかもしれない」

 そんな風に、小さく呟く。

 そして、視線を外に向けかけて――なぜか、俺の方を見た。

 彼女の唇はそれ以上何も語らない。けれど、その瞳に宿った柔らかな色が、言葉以上のことを告げていた。

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