第7話
晴れ間のない空が体育館の窓を鈍く曇らせ、室内の明かりもぼんやりとしている。
今日も、俺はシュートを外していた。
ボールはリングに弾かれ、壁に転がって止まる。
胸が上下し、荒い呼吸が喉をかすめる。息を整えようと、口を閉じて鼻から深く息を吸った。
汗が滲み、シャツが背中に張りついている。
壁にもたれかかって、タオルで顔を拭った。
全体練習のときから感じていたが、今日はいまいち調子が良くない。
――数時間前。
アップ直前の空き時間に、ツネ以外の部員たちにも「名無しさん」のことを聞いて回った。
「旧体育館の二階席? ……知らないなー」
「どんな子? 特徴は?」
「不審者じゃないの、それ」
三者三様な返答をもらったが、みんな、特に心当たりはないようだった。
(名無しさんは、以前からここによく来ていたような感じだったのに……誰も見たことないなんてあり得るか?)
聞き込みを諦めようとしたそのとき、ふいに、二年の小田先輩が話しかけてきた。
「……森、もしかしてそれ、噂の幽霊じゃないか?」
「幽霊、ですか?」
「ああ。二年の間だと、最近噂になってんだよ。夜、学校に残ってると、不思議な現象に遭遇するんだってさ。電灯が激しく点滅したり、閉めたはずの窓が全開になっていたり」
「それだけだと、単なる校舎の経年劣化で説明がつきそうな気もしますよ」
「それだけじゃない。この学校には数年前から『死んだ女子生徒の霊が、美術室で夜な夜な絵を描いている』って噂もあるらしい……こえーだろ?」
小田はそこで一拍おき、急に声を潜めた。
「……それにな、俺、実際に見ちまったんだ」
「見た?」
「図書館でさ。試験前で残ってたんだけど、気がついたら本が勝手に浮いて、ぐるぐると宙を舞ってたんだよ。まるで人が操ってるみたいに……俺、怖くなって走って逃げたけど、あれは絶対に幽霊だ」
小田の目は、ぞっとするような真剣さを帯びていた。
聞き込みをした結果、余計に謎が深まってしまった。特に、小田先輩から聞いた話はかなり引っ掛かる。
集中できていない――我ながら、そう思う。
「なかなか入らないね」
二階席から、聞き覚えのある声がする。
「……どうも、名無しさん」
「その呼び方、気に入ってるの?」
「君がそう呼べって……」
俺は呆れて、一瞬目を伏せた。
目を開けると、彼女は例によって、何の気配もなく俺の目の前に瞬間移動していた。
昨日と同じ声色、同じ無表情。だけど、なんとなく、昨日より雰囲気が柔らかい気がする。
「俺のシュート、何でこんなに精度が低いんだろう。そりゃ、練習量が足りてないのは自覚してるけど」
俺が呟くと、彼女はわずかに首を傾げて言った。
「簡単よ。入るって信じてないから」
「信じてない、か……この前『自信を持て』って指摘されてからは、意識するようにはしてたんだけどな」
「自信が足りないのと、最初から入らないと思っていることは別よ。あなたは、自分自身ではなく、自分のシュートを信じていないの。『俺のシュートは、どうせ外れる』って、どこかで思ってる。シュートを放つ前に、自分で結末を決めている」
図星すぎて、返す言葉が見つからなかった。
そう、確かに俺は。心のどこかで、毎回そう思っていた。
「……それって、バレてるもんなんだね」
「目でわかる。動きに迷いがあるから。手元も、力の抜き方も」
彼女は、よく見ている。俺よりも、俺を見ている。
それはなんだか悔しくて、少し照れくさかった。
「ねえ、名無しさんって、本当は何者なの?」
ふと、思っていたことが口をついて出た。
「君は、なんでそんなに俺のことについて詳しいの?」
「言ったでしょう? 私は"魔女"だって。大体のことはお見通しよ。それに、この前も言ったけど、あなたが練習しているところを見るのは、初めてじゃないから」
「でもさ、だとしたら君はいつも何時から二階席にいるわけ? 旧体育館は、新体育館と違って連絡通路がない。だから、一度中に入って、階段を上らないと二階には行けない。練習の途中で誰かが二階に上がっていくところを、俺は見たことがないんだ」
少し間を置いて、僕は彼女に核心を突く質問をもう一つ重ねた。
「君は一体、いつから二階席にいたの?」
彼女はその問いに、すぐには答えなかった。
体育館の静寂が、二人の間に降りてくる。
やがて、彼女はふっと目を伏せて、小さく息を吐いた。
「……実はね、私、昔のことあんまり覚えてないんだ」
「え?」
「生まれてから、どういう人たちに囲まれて、どんな環境で過ごしてきたのか。学校のことも、なんでこの学校の制服を着ているのかも、ほとんど覚えていない……気づいたらここにいたの」
「そんな……でもこの前『美術部だった』って」
「断片的に情報として残っているものがあるだけ。美術部だったという私の”属性”が残っていたから、それを答えただけ」
静かだけど、鋭くて、妙に胸に刺さる言い方だった。
普通だったら冗談としか思えない内容だが、彼女は普通の人間とは確実に何かが違う。
それだけは、ここ何回かの邂逅を思い返しても、日の目を見るより明らかだ。
人間は嘘をつくことができる。だから、この話を百パーセント真実として受け入れるのは、本来難しいことなのかもしれない。
でも、これがもし本当のことだったとしたら――。
彼女は一体、どれだけの時間「一人」でいたというのだろう?
俺は一歩踏み出して、彼女をまっすぐ見た。
力になりたいと思っていること。それを伝えなければいけない、と思った。
「俺は、君のことをもっと知りたいと思ってる。一緒に探すことはできないかな? 君の記憶と、”本当の名前”」
彼女はその言葉に、わずかに目を見開いた。
なにか、初めて気づかされたような顔。
でも、すぐにそれを隠すように、静かに微笑んだ。
「……あなたは、面白い人ね」
「褒めてる? それとも皮肉?」
「内緒」
そして彼女は、そのまま無言で体育館を後にした。
出口に向かう背中は、どこか浮世離れしていて、相変わらずつかみどころがない。
でも――彼女が“名乗らない理由”だけは、はっきりとわかった。
数日後。
授業が終わり、体育館に向かう途中だった。
連絡通路のガラス窓は、午後の陽を受けて、キラキラと金色に光っている。
中庭の芝生はもうすぐ初夏の色に変わりそうで、窓の外はどこか現実感がなかった。
廊下の先に、人影が二つ――。
一人はすぐにわかった。名無しさんだった。
例の、不可解で、どこか浮いているような人。
そして、彼女と向き合って座っているのは……見知らぬ、”眼鏡をかけた女子生徒”だった。
彼女は、長めの髪をひとつにまとめ、ブラウスの袖を大胆に捲っていた。まだ五月だというのに、そんなに暑いのだろうか。
ふと視線を落とすと、上履きの赤いラインが目に入った。二年生の先輩――らしい。
また、カメラを構えて、ファインダー越しに、名無しさんを静かに覗き込んでいる。
俺は立ち止まった。
何か……話している。
「光の当たり方が、なんか不思議な感じ。まるで君の輪郭が少し揺れてるみたい」
聞こえてきたのは、”眼鏡の女子生徒”の声だった。声自体は高めだが、落ち着いた口調で、どこか独り言みたいだった。
「そう?」
名無しさんが静かに答える。
「うん。でも何となくわかるんだ。私も、時々自分の存在がちゃんと写っているのか、よくわからなくなるから」
そう言うと、”眼鏡の女子生徒”は少しだけ微笑んだ。
名無しさんも、それを見て小さく頷いたように見えた。
二人のやりとりは、不思議な静けさに包まれている。
俺は、しばらくその場から動けなかった。
まるで、何かとても個人的で、神聖な瞬間に踏み込んでしまったような気がして。
ガラスの反射越しに、ふと名無しさんがこちらに気づく。
目が合った。けれど彼女は驚く様子もなく、すっと目を細めるようにして微笑んだ。
そして、何も言わずに視線をそらし、また”眼鏡の女子生徒”の方へ向き直る。
俺は歩き出す。ゆっくりと。足音をなるべく立てないように。
そのまま体育館へと足を向けたが、頭の中にはさっきの情景が焼きついたままだった。
――あの子は誰なんだろう?
名無しさんと親しげに会話していた、あの女子生徒。その顔に、見覚えはなかった。上級生だからだろうか?
今思うと、名無しさんが第三者と話しているところを見たのは、あれが最初で最後だった――。
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