第6話
その日も俺は旧体育館に残っていた。
旧体育館は普段、スポーツ系の同好会の人たちが主だって使用している。
といっても彼らの活動時間は、昼休みと夕方がほとんどなため、夜間は一気に人の気配がなくなる。
ぐるりと辺りを見回してみるが――少なくとも、コート内にいるのは俺ひとりだけのようだ。
いつもつるんでいる『ツネ』こと常川昭雄は最近、全体練習が終わると真っ先に帰ってしまうため、自主練はもっぱら一人で行っている。
「夜の新体育館めちゃめちゃ混むじゃん?だから、旧体育館使わね?」とか言い出したのは、どこの誰だったことやら……つくづく大した奴だ。
シュートを放つたびに、俺は昨日の、あの一本を思い出す。
あのとき、誰かに見られていると思ったら、不思議と緊張しなかった。
むしろ、どこか安堵していた――あの、名前も知らない“誰か”に。
今日も来るのだろうか?
そう思いながら、俺はもう一度ボールを構える。
そのときだった。
「今日の方が、リラックスしてるように見える」
また、二階席から声がした。昨日と同じ、低体温だけど澄んだ声。
顔を上げると、やっぱりそこにいた。
昨日と同じ制服、同じ立ち姿。まるで時間が止まっていたかのように。
「こんばんは」
少し迷ったが、ありきたりな挨拶の言葉を唱えた。
彼女は少しだけ目を細めたようだったが、笑ったのかどうかはわからない。
「こんばんは。こういう風に誰かと挨拶を交わすの、久しぶりかも」
「部活の癖でつい……君が落ち着いていて、年上に見えたというのもあるけどね」
「……ふうん」
その返答に、彼女は何か思うところがあるような顔をしていた。
また、音も気配もなく二階から姿が消えて、気がつくと俺のすぐそばにいた。
どうやって降りてきたのかは、やっぱりわからなかった。
「……君は一体何者なんだ?この前もそんな風に移動してたけど、とても人間技とは思えない」
「気になる?そうね。私は”魔女”……ってところかな」
普段だったら吹き出してしまうところだが、瞬間移動といい、只者ではなさそうな雰囲気といい、その言葉を信じてしまいそうな自分がいた。
「”魔女”ね……オッケー、信じるよ。ただ、名前と学年くらいは教えてもらえたらありがたいな」
その言葉を聞いた彼女は少し意外そうな顔をしていた。
「……名前って必要?」
「え?」
「あなたは私の名前を知ったら、何か得があるの?」
「うーん……損得の問題なのかな。こうして話してるのに、呼び方すらないのは変じゃない?」
俺の言葉を聞いて、彼女は少しだけ黙りこくった。
その沈黙は、ほんの数秒だったけれど、やたらと長く感じた。
「名無しさん」
「なにそれ」
俺は思わず笑った。
「ほら、インターネット上の掲示板とかであるでしょ。誰だかわからない人。私、そんなもんだよ」
声は淡々としているのに、どこか自分を遠くから見下ろしているような響きがあった。
「名無しさんって呼ばれるの、君は嫌じゃないの?」
「……別にいいよ。私のこと覚えてる人なんて、もうほとんどいないし。名前なんて所詮は記号でしかないもの」
言葉の終わりが、砂のようにさらさらと消えた。
俺は軽くボールを衝いて、視線を逸らした。
(「覚えている人なんていない」というのはどういうことなんだろう。もしかして、この学校の生徒じゃないのか?)
とにかく今は、この話題に深入りするべきではないと思った。話題を変える必要がある。
「――次のシュート、決まるよ。見てて」
「……」
膝を軽く曲げ、力をためるように沈みこむ。
両手を伸ばすと同時に、指先がボールを押し出し、綺麗な弧を描いて宙へ飛んでいく。
空気を切り裂くように進んだボールは、リングの縁に触れることなく、そのまま吸い込まれるようにネットへ沈んでいった。
白い網がわずかに揺れ、乾いた音を立てて余韻を残す。
ボールはそのまま床に落ち、乾いた音を立てて大きく跳ね上がった。勢いを失いながら、二度、三度と弾んでいるのを、俺らはただ無言で眺めている。
「……圭太くんって、どうしてバスケ部に入ったの?」
「え? ああ……友達に誘われて、流れで。本当は中学で辞めるつもりだったんだけど」
「そっか」
「うん。名無しさんは何か部活とかやってる?」
「……美術部だった。以前の話だけど」
そう聞くと、そこまで意外な感じはしなかった。
彼女は、自分だけの世界を持っているような気がするし、絵を描いているところも容易に想像できる。
どんな絵を描いていたんだろう。
「確かにアーティストっぽいもんね。名無しさんって」
「それ、褒めてる? もしかして皮肉かなにか?」
「深読みしすぎだよ。君は自分の世界をちゃんと持っている気がして……羨ましいと思っただけさ」
「羨ましい……かぁ。それを言うなら、私だってあなたのことが羨ましいよ」
彼女は俺の目を見て、はっきりとそう言った。
予想外の返事が飛んできて、たじろぐ俺を見て、少しだけ笑ったような、そんな気もする。
俺の姿をそっくりそのまま映しこむ彼女の濃褐色の瞳は、幽玄なアンティークのようで――いっそ、この世界の全てを同じ色に染めてほしいとすら思わされる、不思議な魅力があった。
それにしても、俺のことが羨ましい?どういうこと?
「――それって」
「今日はもう行くね。続きはまた今度」
彼女はおもむろに視線を外すと、鉄格子の外に忍ぶ闇を覗き込むようにして顔を逸し、そそくさと出口に向かって歩いて行った。
名無しさん――ほんと、掴みどころがない人だよね。
翌朝、教室に入るとすでにツネは、窓側一番後ろの自分の席に座っていた。いつも通り片肘をついて窓の外をぼんやり眺めている。
「ツネ。最近、全然自主練来ないな」
俺が声をかけると、ツネはふっとこっちを見て、苦笑いを浮かべた。
「あー、わりぃわりぃ。最近、ボランティア部の方が忙しくてさ……それに、練習の方もマンネリ化してきてるし、なんか気合入らないんだよな」
「けど、そんなこと言って、レギュラー争いどうすんの」
「まあまあ。圭太みたいに根性でカバーするタイプとは違うんで」
「言ってろ」
軽く笑い合いながら、手すりに寄りかかる。
そのとき、不意に昨日のことが脳裏に浮かんだ。
二階席から、気配もなく降りてきた、あの不思議な女子生徒。もしかして、ツネなら何か知っているかもしれない。
「なあ、ツネ。旧体育館の二階席によくいる女子生徒、知ってる?」
「……は?」
ツネはちょっと眉を上げて、顔をこちらに向け直した。
「いや、最近旧体育館に残ってると、二階席に女の子が立っててさ。なんか、こっちを見てるんだよ」
「……怖ッ」
「いやいや、変な意味じゃなくて。声かけてくるし、話もちゃんとできるんだ」
「名前は?」
「聞いたら、上手くはぐらかされたよ」
それを聞いたツネは、どこかニヤついた顔になって
「――なるほどね、圭太君。今の君の好感度は、まだその程度ということだよ」
などと宣った。
「うるさいな。……でも、ツネって何でも知ってるじゃん?前に先輩の妹がどこの中学出身か、とかまで把握してたし」
「おいおい、その言い方だと、俺がストーカーみたいじゃんか」
ムキになって俺の言葉を否定したツネは、腕を組んで、しばらく考えてから首を振った。
「いや、知らないな。女子が旧体育館に入り浸ってるなんて初めて聞いたぞ。大体あそこって、昼休みと夕方以外は普段からほとんど人いないだろ」
「……そうか」
「マジマジ。そもそも、無闇に二階席行くと、先生に怒られるって聞くし、皆行きたがらねえんだよ。昔、休み時間に遊んでて、備品の椅子を壊したやつがいたとかなんとかでさ」
「いや、普通にいたよ。昨日も一昨日も」
「うーん……気のせいとか、じゃないよな?」
「さすがに、そんなわけないだろ。会話だってしたんだ」
「……圭太って、幽霊とか信じる?」
「やめろよー、そういうの」
思わず苦笑いを返す。でも、胸の奥で何かがひっかかった。
――知らない。
たったそれだけの返事が、こんなにも奇妙に聞こえるなんて。
あんなに強い印象を残す相手なのに、ツネがまったく知らない。
それだけで、あの少女が、現実から一歩ずれた場所にいるような気がしてきた。
「まあ、また会ったら教えてくれよ。ちょっと気になるしな。そういうの」
ツネは軽く笑いながらそう言ったけれど、俺は素直に頷けなかった。
教えられるかどうかも、わからなかったからだ。
彼女は現れる。気まぐれに、静かに。
でも何だか、世界から切り離されてしまっているようにも感じる。
どこかに名前を落としてきてしまったから、ひっそりと立ち尽くしているのかもしれない。
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